私の普通はみんなの普通?
こんにちは、札幌の渡辺です。
雪虫(ゆきむし)が飛び始め、いつ雪が降ってもおかしくない日が続いています。また冬が来ますね。
豊田さんのお話にあった『相手の話を聞きながら、実は自分の出方を考えていた』ということ、私にも身に覚えがあります。ついついアドバイスの準備をしてしまうんですよね。気をつけたいと思いました。
さて今回は、家族間にあった“普通”のずれから生じた疑問から、いろいろ考えたことについて書きたいと思います。
我が家は5人家族ですが、私が一番背が低いです。158センチは女性としては普通だと思っているのですが、180センチ前後の男性陣や170センチの娘の前では、私はいつも“ちっちゃい人”扱いです。
そして、日常生活の中では夫や子どもたちが何気なくひょいと置いた物の位置が“高すぎる!”ことが多々あります。
意地悪しているのでは無く、それが私にとって手が届かない位置だということに気づいていないのです。『届かないんだけど〜』と言えば『ああ、ごめんね』と戻してくれるのですが、またすぐ自分の一番使いやすいところ・・・
つまり“自分の普通”に戻ります。そして、私はそのたびに不便を感じてイライラしてしまいます。
息子に不満をぶつけそうになった時、ふと疑問が湧き上がりました。
『これって、心の中にもあるんじゃないかな?』
自分に都合の良いことを“普通(常識・善)”と決めて、自分に都合が悪いとそちらを“普通じゃないもの(非常識・悪)”としてしまう。実はどちらもそれぞれにとって“普通”なのに。
『息子や夫は高い所に物を置くけれど、私は気持ちの上での私の普通を日常のあちこちにまき散らしていたかも』
と思ったんです。悪気が無いので、かえって気がつかないように思います。良いことと信じている場合もありますしね。
でも、自分の都合や好みが絶対とはいえません。当たり前の中に透明な傲慢が潜んでいるような気がしてきました。
普段は気にもとめないような事にこそ、ほんの少し相手の立場を思いやる気持ちが加われば“お互い様”として尊重し合えるし、相手の都合や気持ちに寄り添った行動をとることができます。その結果、お互いに幸せな気分になれるにちがいありません。
こう思うとトイレットペーパーの袋が棚の奥にあってつかみにくくても、こみ上げてくる怒りが和らいできます。
「トイペはもう少し手前に置いてね〜」と言ってる私は、ハートだけは家族で一番大きくなれたように思いました。
では、次の斉藤さんにバトンをお渡しいたします。どうぞよろしく。
北海道/渡辺寿子
2013年11月11日(月)
No.113
(日記)