ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

可愛い子には・・・


照子さん、バトンを受けとりました!
東京都の加藤くりです。

とかく、親は子が心配なのかな。
うんうん、心配する親は多いだろうな〜と思いつつ拝読しました。

「子どもの脳には『親離れ』がプログラミングされてるが、親の脳には『子離れ』がプログラミングされていない。なぜならば、長い人類の歴史のほんの少し前までは、親が次々と子育てし、末っ子を育て終える頃には寿命が尽きていたから」
という話を聞いたことがあります。

私の母は、正に「子離れ」に苦労するタイプではないかと思いました。
なぜならば、かれこれ30年ほど前に姉が嫁に行った後、心にポッカリ穴が空いてしまったのか?しばらく「放心状態」で、色んなことが手につかない様子でしたから。

そんな母の元で嫁にも行かず長く暮らしていたので「次に私が巣立つ時は、更にショックが大きかろう」と、当時の私は色々作戦を考えます。
その「作戦」の結果、実は親の有り難みを知ることとなりました!

「手始めに、私が家にいない状態に慣れて貰おう!」
十数年前になりますが、そう考えて冬の3ヶ月間「山形蔵王温泉スキー場」で冬期社員として働くことにしました。

各地から集まった仲間たちとの寮生活。
雪に閉ざされた山の上の温泉街で、寮から職場へ雪深〜い道を長靴はいて通いました。
非日常な日々、慣れない環境や新しい体験を毎日味わうのはエキサイティングで楽しいものです。

ある日、両親から段ボール箱にギッシリ詰まった荷物が届きます。
買って食べてみたら美味しかったというみずみずしいネーブルオレンジが何袋か、家で栽培してるキウイフルーツの粒よりのもの、父が「長野で育った子ども時代によく手伝っていた事を思い出して作ってみたら、上手く出来た」という大きくて柔らかい干し柿。
そのほかにも、やはり食べて美味しかったというお菓子など入っていたように思います。

「私は親のことをほとんど思い出さずに日々暮らしていても、親は子を忘れないのだなぁ」
と思い、既に親を亡くしている友人達のことなど思い出し、いずれ先に旅立ってしまうであろう親のまだいてくれる有難さにはたと、気付いた瞬間でした。

山の上での生活はお金を使うことがほとんどなかったのですが、ここは一つ親を喜ばせようかと「ずんだ大福」や「くじら餅」「くるみゆべし」といったご当地の美味しい生菓子を豪快に、冷凍便の大箱で送りました。
すると、餡子ものや柔らかい和菓子に目のない母が大喜びしお礼の電話をかけてきました。

酒やワインは送っても「娘が帰って来てから開けよう」という母の判断により仕舞い込まれるのが分かっていたので、自分が下山する際にまとめて送ることにし、それからはせっせと冷凍ものの生菓子を送りました。
すると今度は母から「○○さんへお礼にあげたいから、アレまた送って欲しいんだけど」とリクエストの電話も来るようになったり。

親の有難みが身に沁みる一方で、スキーセンターで一緒に働いた地元農家のおばさま達にも大変良くしていただきました。
「冬至にはね、3軒分の『いとこ煮』を食べると、風邪さひがねってっから、これさも喰え」と、カボチャと小豆を炊き合わせたご当地の煮ものをそれぞれ自宅から持って来て、我ら寮生に振舞ってくれたり・・・

私が一度だけ、胃の調子を悪くして食欲がなかった時は「卵がゆさ作ってけるから、喰えは」と美味しい優しい味の卵がゆを作ってくれたり。
あまりに美味しくできていたので、胃を悪くしてない他のメンバーまで「食べたい!」と言い出し一緒に食べたのを思い出します。
次の日、上質の柔らかくて大きな梅干しを持って来てくれた人もいました。

社員食堂で「ゆで卵」と言えば「固茹で」しか出ないので、「半熟卵が食べたい〜」と言っていたら料理長のおじさまが翌日、わざわざ家で茹でた「温泉卵」を10個も持って来てくれたこともありました。

皆さん、自分の娘や息子とほぼ同世代だった私たちを我が子のように思ってくれてたのだな〜と、懐かしく思い出します。

当初、家を離れた目的は「母が、娘のいない状態に慣れるため」だったのですが、離れてみて親の有難みや、また他人が親のように良くしてくれる有難さをたっぷり味わう結果となりました。
「可愛い子には旅をさせよ」という諺は、このことか!!

山を降りた私はそれ以前より、親に優しく接することができるようになったと思います。
そして、山でお世話になった大好きな皆さんからいただいた優しさ。「恩送り」として、若い世代に送っていきたいと思っています。

皆さん、可愛いお子さんは「旅」してますか?

さて、バトンを兵庫のはせなかりえさんにお渡しします♪
りえさん、お願いしま〜す!!

東京都/加藤くり 





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