ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

個性を活かす


襷を受け取りました、兵庫県の名和です。
森屋さんからの「いつも、自分は何をしたいのか?と向き合うことを忘れずに、諦めないで頑張ってください!」の言葉。これは、まさに私へのエールです。というのも、この「自分は何をしたいのか」と向き合うことで、窮地を脱することができたからです。

私は、団地の窓口業務を義母の介護のために離職してから、近い将来の再就職に向けて「登録販売者」という資格を取得しました。この資格は、2年間の実務経験を経て初めて正規の資格となるもので、それまでは、いわば仮免許状態です。
私が、なぜ、この資格を取得したかというと、漢方薬のカウンセリング販売をしてみたいと思ったからです。

主人の実家へ転居して遠距離介護が一段落したのを機に、一昨年末、2年間の実務経験を積むべく近くのドラッグストアに勤め始めました。
そこで与えられた仕事は、「品出し」と「レジ」でした。「品出し」をしながら漢方薬のことをもっと勉強しよう…などという考えが、いかに夢ものがたりかということを思い知りました。

品出し作業では、体育館ほどの広さに幾十列にも立ち並ぶ棚の中から目的の棚をパッと見つけて、タタタッと並べる迅速さが要求されます。方向音痴でスローな私には至難の業でした。
レジで求められるのは、「同時にいくつものことを並行して行う能力」です。ひとつのことに集中すると周りが見えなくなる私は、この業務に慣れるのに人一倍、時間がかかりました。フィードバックノートを書いて明日へ臨みましたが、現場では即戦力を求めているため、私の上達を待つ余裕はありませんでした。
「使えない従業員」である私への視線はどんどん厳しくなっていきました。リーダー格の従業員からは、挨拶を返してもらえなくなりました。

居心地が悪くなると、私は緊張して、失敗したらどうしよう…と「焦る」ようになっていきました。焦れば焦るほどに、自分らしさを失い、小さなミスをしました。そして、できない自分を恥じ、みじめな気持ちになりました。
半年ほど経って体調を崩し、重い心と体を抱えながら仕事をしていると、ついに大きなミスをしてしまいました。万事休す…私の頭にはこの言葉しか浮かびませんでした。
店長始め、従業員の私への信頼度は「ゼロ」に失墜。何かにつけ咎められ、やることなすこと裏目に出ました。
職場は針の筵。ついに「私がこんなダメ人間だからいけないんだ」という考えに陥ってしまいました。

それを救ってくれたのは、家族や友人の存在でした。
特に、実母、妹、友人は、私の話を根気よく聞いてくれました。娘は、母の日に花束を抱えて職場へ迎えに来てくれました。皆がそれぞれの言葉や行為で伝えてくれたのは「あなたはちっとも悪くない」というメッセージでした。
その言葉を唱えながら、心落ち着かせて、「自分を責めたところで何も生み出せない」と思い直しました。そして、「この仕事は私に向いていない」という事実にだけ目を向けました。

すると、「私は何のためにこの仕事をしているのか?」という問いが生まれ、初心に立ち返りました。そこからさらに、「実際に、漢方薬のカウンセリング販売の仕事に就けるのか?」という問いが生じました。
これには、足を運んで調査する必要があり、可と出るか否と出るか少しドキドキしながら、私はある漢方薬局へ出向きました。尋ねると、漢方薬のカウンセリング販売ができるようになるには、さらなる資格が必要な上、最短でも5〜6年はかかるとのこと。
それを聞いて、あろうことか私は「ほっ」としたのです。お婆さんになっちゃうわ…と。「漢方薬」に対する諦めがついたとでもいうのでしょうか。「お薬」にこだわる必要がなくなったのです。

そのことから、私は「本当は何がしたいの?」と自分に向き合い始めました。そんなある日、枕元にあった「エニアグラムで幸せ子育て〜自分と子どもがよくわかる本」が目に留まりました。何回も読んでいて、すぐ傍に存在していてほしいほど好きな本であり学問なのです。それをきっかけに、大学時代の臨床心理学のゼミで不登校の中学生の女の子をサポートした時のことを思い出しました。大きな指輪を中指にはめ、物事を稀有な視点から鋭く捉える彼女と向き合うなかで、「なんて魅力的な人なんだろう! 学校には行ってないけれど、彼女らしさを活かせる場所がきっとあるはずだ」と思ったことを。子どものカウンセラーになりたかったけれど、当時は、今でいうスクールカウンセラーという職種は無く、諦めたことも。
その時です。私は、「子どもたちが自分らしく生きられるようにサポートしたいのだ」と気づきました。同時に、私自身も自分らしく生きたいと思いました。

店長に退職の意を伝えると、「了解です」と、ひとつ返事が返ってきました。
それからというもの、私は舵を切り替えて、子ども支援の情報を探し始めました。この時、「お前は過度に効率を求められる仕事には向かない。お前の感性はこちらに向いている。例えば、街角にピアノが置いてあると、そこへ座って弾き始める人がいる。一方で、邪魔だと思う人もいる。音楽を志すのは前者や。要は、感性や」と後押ししてくれたのは主人でした。

まもなく、教育関連の仕事をしている大学時代の友人から「学校で支援員を募集している」との情報を得て、早速、教育委員会に「支援員登録」をしました。しかし、支援員を大量募集したばかりで、欠員補充という状況に変わっていることも知りました。
欠員がないかもしれないけれど、「私はその仕事に就きました。さて、私は何をする?」と問いました。ハートフルコーチ養成講座で学んだ方法です。
「教育カウンセリングの勉強をする」と即座に答えを出しました。早速、講座に申し込み、テキストを購入して読み進めると、途中のコラムに当法人の代表、菅原裕子訳の
「ひび割れ壺の話」が載っていました。
「待ってましたよ」と言われたようで、思わず涙が溢れました。

ドラッグストアーでの私は、自分の<ひび>のためにそこでの目的を果たせなくて恥じ入るひび割れ壺でした。そして、今も、私はひび割れ壺であることに変わりはありません。ただ、その<ひび>を活かせる仕事に就こうとしたのです。私もそうであるように、子どもたちの個性的な<ひび>が花を咲かせるお手伝いをしようと。
欠員がなくても、やりたいことは決まっているのだから、その方向の仕事を探せばいい。と、気持ちは前向きでした。

3月も終わりに近づいた頃、私の携帯電話が鳴りました。発信元は、教育委員会。
「欠員が出ました。来てもらえますか?」
「はい、是非、よろしくお願いします」
と返事したことは言うまでもありません。

そして、私は今、市内の小学校で支援員の仕事をしています。学力がおぼつかない子どもたちに考えるヒントを与えたり、座っていられない子どもに寄り添ったり、自分でやろうとする姿を見守ったり。
ある日、勉強を苦手とする2年生の子どもが、「先生、何歳?」と聞いてきました。「そうね、あなたのおばあちゃんぐらいかな。」と答えると、その子は私の頬や手に触れて感触を調べながら言いました。
「絶対、ちがうわ〜!もうちょっと若い!」と。
「わぁ〜!自分の手で確かめたのね、すばらしい!」。
なんとも誇らしげな彼の笑顔。私も満面の笑顔でした。

あの辛い体験は、この仕事をするための布石であったのかも…と、今となっては思えます。日々、大変なこともあるけれど、お陰様で生き生きと仕事をしています。
次は、上村さんへと襷をつなげます。よろしくお願いします。

兵庫県/名和めぐみ 







2019年06月24日(月) No.413 (日記)

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