ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

木蓮のような


明けましておめでとうございます。
埼玉の上村です。
名和さんと娘さんの成長の軌跡。ゆっくりと確実に歩んできたらせん階段のここそこに、おふたりの泣いた顔、怒った顔、はじける笑顔が浮かんできました。

年の初め、母に想いを馳せたいと思います。
私は好きな花を尋ねられたら迷わず「白木蓮」と答えます。
若い頃は風に揺らぐような小さな花が好きでしたが、いつの頃からか、木蓮の花に目が留まるようになりました。
なぜ木蓮に心惹かれるのかと考えてみると、それは世の多くの「母親」を連想させるからだとあるとき気づきました。思えば私自身が子どもを産み育ててからのことです。
大きなものは10メートルを優に超す木蓮の木。大地にどっしりと根を張り、太い幹から悠然と枝を広げる力強さ。花びらを完全に広げることなく天に向かって真っ白でふくよかな花を無数に咲かせるその姿は、気高くて勇敢、包容力と慈愛。私の中でたくさんのイメージが湧きます。そして何より心を奪われるのはその散り際の潔さ。開花から2〜3日で散り始め、ぼたぼたと落ちていきます。地面を白一色に埋め尽くし、未練や寂しさを一切残さないその終幕。それらすべてが私には「母親」の大きな愛を思わせるのです。
そして今はそんな木蓮に亡き母の姿を重ねるようになりました。

私が小学生だった頃、母は家の3畳ほどの部屋を仕事場にして縫製の内職をしていました。
工業用のいわゆる足踏みミシンで、ガガーガガーと大きな音が一定のリズムを刻み瞬く間にズボンを縫い上げていきます。学校から帰った私は段差のある部屋の敷居に腰掛け、ミシンの音の合間をぬってその日の出来事を話しました。嫌なことがあった日はなかなか言い出せません。そんなとき母は作業の手を止めて私が話し出すのを待ってくれました。
幼い頃の母との思い出を振り返るとき、一番に思い浮かぶのはこの3畳の小さな部屋で仕事の合間に私に投げかけてくれた母の眼差しです。母が私を見てくれる、気にかけてくれる、それは唯一母をひとりじめできる時間だったのです。帰宅してからのわずかな時間が、私にとって母とふたりだけで過ごす大切な日常でした。

3人の娘の子育て、仕事、家事を気丈にこなす母でしたが、40歳のときに心臓病を患い大きな手術をしました。そしてその数年後、私が高校生のとき脳梗塞で倒れました。幸い、右半身と言葉に障がいが残ったもののなんとか自分の力で日常生活を送ることができました。右の足がうまく出ないのでひょこ、ひょこっと歩く様子やろれつが回らず会話にならないもどかしさが、その頃の私には少し悲しく映ることもありましたが、母は持ち前の明るさとバイタリティーで子育てや家事をこなし、日が経つにつれそれがもともとの母の個性であったかのようになじんでいきました。

母は朗らかでとてもお茶目な人でした。いくつになっても父とじゃれ合い、ときには小さなパンチを父に繰り出し、それがおもしろいと自分で大笑いするような人でした。そしてその姿に家族全員が思わず吹き出してしまう、そんなふうにまわりの人を楽しくさせてしまう人でした。もちろん日々の中では父の献身的なサポートがあったことは言うまでもありません。夫婦ふたりで子どもには見せることのない辛いときを幾度も乗り越えてきたのだと思います。だから両親は私の夫婦の在り方のお手本です。

そんな母が私たちに残してくれた一番の贈り物、それは揺るぎない愛情でした。
妹がうつ病を患い長い闘病生活から社会復帰を果たすまで、母はときに体調を崩しながらも片時も妹から離れることなく彼女の言葉に一緒に喜び、泣き、怒りました。
妹の不安や焦りに耳を傾けどんなときも「大丈夫! 絶対に大丈夫だから」と言い続けました。ともすれば、何を根拠に?その場しのぎのものでは?と反発されそうなその言葉は、それでも妹の心に届き、これまでも、そして今もなお妹を支えてくれるものになりました。
揺るぎない母親の愛情。母は揺るぎない子どもへの愛を余すことなくその言葉に込めて伝え続けたのだと思います。なにものにも代えがたいものだからこそ、妹の心深くに。言霊のように。それを受け取った妹は母の愛に満たされたと言ってもいいかもしれません。

3年半前の6月に母は脳出血で倒れ、3週間意識不明のまま逝ってしまいました。その間、私たちは病室で母が大好きだった歌を流しながら母に話しかけ、髪をとかし、体を拭いて穏やかな別れの時間を過ごしました。
最期のとき、父が母の手を取りながら「もうがんばらなくてもいいよ」とそっと声をかけると、わずか3分の後、ピーという音とともにモニターの波形が一直線に消えていきました。
まるで「わかった。もう行くね!」と、ちょっとそこまで出かけていくようなあっけない旅立ちに見守っていた私たちは「え!?」と思わず泣き笑いになり顔を見合わせたほどでした。
深く力強い愛情と和やかな笑顔、別れの時間を残してくれたこと、そしてもう思い残すことはないとでも言いたげな最期の姿に「母は木蓮のような人だった」、そんなふうに思いました。私もいつの日かそんな母親になれるかな? 木蓮の花を見上げながら私は母に話しかけます。

母は春が好きでした。2月の声を聞けば「早くあったかくなるといいねえ」と春を待ちわびていました。木蓮の花が咲く頃に母の誕生日がやってきます。今年も木蓮の花に母の笑顔を重ねれば、きっと聞こえてくるはず。「大丈夫! 絶対に大丈夫だから」という母の声が。

埼玉県/上村明美 






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