ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

結果の先にみえたもの


大阪の田中です。
お母様の愛情をまっすぐに受け止められ、ご自身の中に湧いた気持ちを感謝として伝えられる小林さんは素晴らしいと思いました。四十を過ぎた今もなお反抗的な言葉を返してしまう自分を反省します。

先日、実家の片付けをしていたときに、私が中学三年の修学旅行で絵付け体験をした時の湯呑みがでてきました。湯呑みの外側だけでなく内側にも絵を描いたことを褒められたんだったー!と、今まで思い出したこともないようなことを思い出し、懐かしい気持ちになりました。そして当時、それまで時間の全てを費やしていたスポーツ競技を辞めた時のことも思い出しました。

小学生の時、兄がやっていたからという理由だけでその競技を習い始めました。初試合でたまたま良い成績をとり、そこから本格的に選手の道へ。平日はもちろん土日も毎日練習。長い休みは合宿と遠征で、いつしかこの競技でオリンピックに出る、というのが私の夢のように思っていました。
しかし、怪我からスランプに陥り、中学三年生のときにコーチの説得も聞かずに辞めてしまいました。私なりに考えに考えての決断でしたが、しばらくして猛烈な挫折感に襲われました。私はなんの結果も残せず、なにも成し遂げないままに辞めてしまった。オリンピックにでるという私の夢ももう叶わない。一緒に頑張ってきてくれたコーチに後ろ足で砂をかけるようなことをしてしまったのではないかという罪悪感もありました。
それからも随分長い間、どこかにずっと挫折感がありました。何かを始めても続かない自分に落胆し、また結果が残せなかったとその度ごとに自分を責めました。

中学三年のあのとき、コーチの説得に応じて続けていればこんな挫折感は味わわなくて済んだのだろうか。オリンピックに出場できて初めて、結果を残せたと思えたのだろうか。オリンピック出場ということが、本当に私の夢だったのだろうか。
そんな自問を繰り返しながら、私が残したかった「結果」とはなんだったのだろうと考えました。

競技が生活の全てであった当時の私にとっては、結果とは、周りからの期待に応え、誰からも認められる順位をとることでした。オリンピック出場とはいかないまでも、大きな試合でコーチに認めてもらえるような結果を残したかったのだと思います。
その後、様々なことに興味を持ち、どんどんと新しいことに向かっていっても挫折感が消えずにいたのも、誰かが評価してくれる結果を残すことになおとらわれていて、他ならぬ自分が自分を認めてあげることができていなかったからではないかと思いました。
でも今改めて振り返ってみると、当時の私は、その時その時精一杯の結果を残してきたのではないか。そして、学校生活を謳歌する友達を羨ましく思いながらも競技に打ち込んだ毎日は、少なからず今の私に、ここぞという時の踏ん張りや、挑戦するチカラを与えてくれているのではないかと思ったのです。

結果を求めて挑戦することもあれば、挑戦した結果が今の自分を作ることもある。それは別物のようで、別物ではないのかもしれません。
今現在、私は自分のやりたいことに挑戦しています。それは中学三年の私が考えもつかなかったことです。興味のあることに次々に飛びついた結果、たどり着いた先のように思っています。なにもかもが中途半端、途切れ途切れだと思っていたけど、どれもが大切なわたしの一部、そして今に繋がってるのかもしれないなぁと思います。

今、長男が中学三年生です。友達の海外留学が決まり、自分も留学したいと言い出しました。けれどいざ留学の話が進みかけると怖じ気づいたりしています。
彼にとってはとても大きな決断でしょう。私が中学三年の時にした決断が、長い時間をかけて今の私に繋がっているんだと思う時、彼がどんな決断をしても長い目で見守ろうと思うのでした。

では、この辺で羽木さんにたすきを繋ぎたいと思います。

大阪府/田中千世子  





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