ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

母のアルバム


兵庫の羽木です。
「自分で選ぶ」ことを大切にしてあげる田中さんに見守られながら田中家の子どもたちが、まっすぐ成長していくことを確信と応援をもって読ませていただきました。

今回は母とのことを書いてみたいと思います。
6年前、母は脳梗塞で倒れ半身不随となりました。その上、以前から患っていた認知症が急速に進み施設に入りました。県外に住んでいる私は月に1度実家に帰るようになりましたが、日々通うことはできません。
施設に入るのに合わせてせめてと、母にアルバムを作りました。手元にある私のアルバムを引っ張り出して、1枚ずつ剥がしてスキャンし、1冊にまとめました。結婚後からですが、母の歴史です。施設に入ったばかりの頃の母は、まだ家族のこともわかり、今よりは記憶も意識もだいぶマシで、何度も見返していました。

母のために作ったアルバムでしたが、自分にとっても思わぬ効果がありました。
母に対する自分の抱える気持ちに折り合いがついたのです。

以前の母はいつもきれいにしていてけっこう美人。普段は父の仕事を手伝っていましたが、習い事、慈善団体の活動などにもよく出かけ、留学生を受け入れたり、県の海外派遣に応募して外国に行ったりで、父からは「奥様じゃなくて外様だな」と言われていました。
私たち娘に対してもそんなに口うるさい人でもありませんでしたし、明るくセンスも良くて、子ども心に嬉しかった記憶があります。ただ、今思うとあまり母性が強くなく、かいがいしく父や子どもの世話をするのが好きなタイプではなかったように思います。学校から帰ると迎えてくれるのは家のことをしてくれていた叔母。私は母性的な優しさは叔母で満たしていたところがありました。それでも愛情を疑ったことはなく大切にされている感は私も妹もちゃんとありました。

ただ、大人になるとまた違う見方もし始めます。完璧に見えた親が、欠点も弱点もある普通の人であることがわかってくるわけです。
母は思ったことをそのまま口にするところがありました。子どもができて年に2回帰省するようになると、確かに喜んではくれるのですが、「しんどい」「疲れる」「大変」を連発。あんまり連発するから、私も「もういい!私が全部するから!」とちょっと意地になって、帰省中、父や母、うちの家族全員の食事の支度も洗濯も全部自分でやっていました。

いい大人なのだからやるのは当然、これは私の甘えだとわかってはいました。それでも、特に自分が大人になってから母に対して、「人として、母としてもっとこうあってほしい」という気持ちや母性が不足していることへの何かモヤモヤするものがあることを自覚していました。
でも、それをどうすることもないままに、母は認知症になり、立場は逆転、完全に私が母を守る側、世話をする側になってしまいました。このモヤモヤは自分で消化するしかないんだなと、もう深い話は出来なくなった母を見ながら思っていました。

それが、アルバムを作りながら、そのモヤモヤが少しずつ晴れていくように感じました。そこには、母なりに一生懸命愛情をもって子育てしてくれたんだなということを十分に感じられる情景がありました。
まず、写真の数が主人の5倍はありました。数に比例するわけではないでしょうが、私用と妹用、別々に丁寧にアルバムに貼られてコメントもついています。写真を選びながら、母が私たちを充分に見てくれていたことが伝わってきたと同時に、私が辛い時に一緒に泣いてくれた母の顔や、笑い上戸で涙が出るほどよく一緒に笑ったこと、高校の時早起きして毎日お弁当を作ってくれていた姿などがよみがえってきました。
大人になってからのことで批判的になり、忘れていた母にしてもらったことや自分がどんなに父や母に守られて幸せに過ごしてくることができたのかを思い出すことができたのです。

では私が感じていたモヤモヤは何だったのかと考えてみました。
当時の私の思いは「母親とは、まだ幼い子どもを連れて久しぶりに帰ってくる娘に、疲れたでしょうとあれこれ頑張ってくれるものではないのか。「大変」「疲れる」など口にしないで、もっと母親らしく、かいがいしく私たちの世話をして欲しかった」のだと思います。

ただ、母は娘一家に何もしてくれなかったわけではなく、帰省を心待ちにし喜んでくれてはいました。明るい母はにこやかに子どもたちに抱きつき迎えてくれていましたし、私が好きな母お得意のぜんざいを作ってくれたり、特産のフルーツを子どもたちにふるまったり、妹一家も引き連れて外食の計画を立てたり、母なりのもてなし方はしてくれていたんだと思います。
でも、当時は楽で自分のやりたいことだけしかやってくれないとしか受取れませんでした。

親子の立ち位置としては、私は結婚して子どももでき、本来もうやってもらう側ではないこともよくわかっている。普段は頼ってはいない。母が私を大切に思い、帰りを喜んでくれているのもわかっている。母の「私が思う母親らしくない」言動は、母性の低さだったり、エニアグラムで学んだ気質からくるものなんだろうことも、母なりに母のやり方で愛し育ててくれたことも理解できます。
それでもモヤモヤしていたのは、私が求めていたのは子どもの頃から少し足りてなかった「かいがいしく世話をしてくれるような母性的な愛」だったから。それは、甘えだとわかってはいるけど、甘えさせてほしかったんだなと思います。なのに、甘えられなかったことへのモヤモヤだったように感じています。

甘えたい時に甘えられない、何か解消されない感覚。大人になった自分に母に甘えたい気持ちがあったなんて、それがこんなにも長く残っていたなんて、意外で、気恥ずかしく、驚きでした。
今なら、もっと素直に、「お母さんのあの料理が食べたいから作ってよ」と意地を張らずに上手く甘えられるのになあと思います。認知症になり、もうそれも叶わなくなりましたが、アルバムを作ることで母の愛情が確認できて、そして、これを書くことで、母に、感謝こそすれモヤモヤする必要はないことがよくわかりました。

認知症になって約10年。施設に入って6年。母はもう家族のことも自分こともわからなくなりました。半身不随で興味は食べることくらい。何のために生きているんだろうと悲しくなることがあります。
10年前に受けた認知症の講習会で、心に残っている言葉があります。

「私たちは起きたことは忘れてしまいます。でも嬉しい、悲しいの気持ちは残るのです」

県外に住む私はコロナ禍でなかなか母に会わせてもらえなくなってしまいましたが、会える時は、充分に愛してくれた母に、感謝と慈しみの気持ちをもって、嬉しい気持ちで満たしてあげられたらと思う今日この頃です。

では、この辺で山本さんにバトンを渡したいと思います。

兵庫県/羽木絵里







No. PASS