ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

「心配」は誰のため?


東京の菅原典子です。

先日の敬老の日に、久々に実家に里帰りをしました。
いつもはネット注文のギフトと電話一本で済ませてしまう敬老の日ですが、暫くぶりに両親に顔でも見せようと思い立ち、家族で訪問を。短い滞在時間でしたが、皆で食事やケーキを楽しみ、サプライズのギフトに母も大喜び。父も孫との久々の再会に終始笑顔でした。そんな二人を見て、無理してでも行ってよかったと心から思いました。

昔からとても心配性でお世話好きな母。人情たっぷりの下町のお母さんといった感じ。
この日も、「心配」の二文字が何度か母の口から聞こえました。実は、私は母に心配されることがちょっと苦手で、話すのもちょっと面倒に感じていました。

母から見ると、毎日仕事や活動などで忙しくしている私が心配でたまらないようです。
「身体が心配」「家のことをちゃんとやっているか心配」「子どもたちの面倒をきちんとみているのか心配」など、母の心配はだいたいそんなところ。
身体を気遣ってくれるのはありがたいですが、家のことや子どものことを心配されると、正直 “余計なお世話”と思ってしまって、「大丈夫だから!」と少しムキになりつい反抗的に返してしまいます。

世代での価値観の違いもあるのでしょうが、我が家のやり方でちゃんとやっているのだから、口を出さずにいてほしい、私のやり方を尊重してほしい、と思うのです。子どもたちだってもう大人。私が仕事で遅くなっても心配いらないし、家のことも家族で協力してやっている。私には私の世界(家庭)があることを分かってほしいのですが、母の中では、孫たちはまだ幼いころのままで、私も未完成な子どもなのでしょうか。一人前の大人としていい加減認めてほしいと思ってしまいます。

ふと思い起こすと、私は子どもの頃から母には「心配」な存在だったようで、いろいろな面でお世話やきをしてくれました。
苦手な図工や自由研究の宿題は、いつも母は姉に私を手伝わせたし、忘れたお弁当は近所の同級生に頼んで教室までデリバリー。朝もずっと起こしてくれたし、結婚後も事あるごとに「手伝いに行くわ!」と飛んできてくれる母。とにかく、娘が困る姿、可哀そうな姿は見たくないという母としての愛なのでしょう。
そんな母の優しさに、大人になってからも甘えていた私でしたが、ふとある時から、その優しさが「おせっかいで過干渉なもの」と感じるようになりました。

そのきっかけのひとつは、夫の転勤で遠く離れた外国で暮らすようになったこと。
異国の地では今までのように母や姉のヘルプに頼るわけにはいきません。はじめての海外子育て生活は、今まで「自分でなんとかする」経験が少なかった私には不安と恐怖そのものでした。格安の電話回線を使って頻繁に母や姉に電話をしては心細い気持ちを紛らせたりしていました。
次第に新しい友人も増え生活も落ち着き充実していきましたが、人づきあいにも子育てにも、なんとなく自信のないまま暮らしていました。「私にはできない」そんな感覚が常に心のどこかに潜んでいたのかもしれません。

それでも、長い海外生活の中で「自分でなんとかする」経験を重ね、徐々に自信を持ち始め、精神的にも強くなってきた頃、9年ぶりの帰国。
そこでまた母の心配が発動。電話をするたびに、「引っ越しは大丈夫なの?」「荷物がたくさんで大変なんじゃないの?」「手伝いに行きたいけど行ってあげられないし・・」「もう心配で・・」とやたらと不憫がる母に向かって、私は無意識に、
「大丈夫!友達にも手伝ってもらうし、何とかなるから!」「お母さんが心配しても状況変わらないんだから、心配じゃなくて応援して!」「私、ちゃんとできるから!」
と勢いよく電話口の母に言っていました。

母は呆気にとられたのか、少ししゅんとした声(もしくはムッとしていたのかも?)になりましたが、とっさに出た、「心配じゃなくて応援して」という自分の言葉に、我ながらちょっと驚き、そしてその後の自分の子育てにも影響を与える自分だけの名言になりました。
日々の子育ての中で、この「心配」って誰のため? 私の勝手? 子どもたちは(あの時の私と同じように)信じて応援してほしいと思っているのではないかな? と考えるようになりました。

親の”お世話やき”の魔の手(笑)から遠く離れた海外生活で、ようやく「できる!」という自信を得た私。私が、母の「心配」を疎ましく思うのは、「できない」から心配なのよ、と言われているような気持ちになるからなのだと気づきました。たしかに小さいときは姉と比べたら「できない」ことだらけだったけれど、本当はきっと、「大丈夫!できるよ!」と思われて応援してほしかったのだと思います。
何十年か後に、口にだしてそれを母に言ったことで、ちょっと気持ちもスッキリし、私も、子どもたちのことを「できる」存在と信じて応援する親でいたいと思うようになりました。

母が、今でも私のことを「できない」存在と思っているのかどうかは分かりませんが、私自身が自分は「できる」と分かっているのだから、母の「心配」をいちいち残念に思う必要はもうないよね、と冷静に考えていくと、母への恨み節も徐々にクールダウン。
母は単に娘の役に立ちたいだけなのかもしれないし、元来のおせっかい母さんはこの先もきっと変わらないでしょう。人のお世話をすることが生きがいの母。そんな「母らしさ」を受け止めて尊重するのも、今私ができる母への親孝行なのかな、と、心に少しゆとりが出たところで、次にまた母が心配モード全開になったときには、母らしい愛と受け止め、柔らかく「そうだね、心配ありがとう」と返してみようと思います。

そういう私の目下の「心配」の種は、勉強になかなかスイッチが入らない(ように見える)受験生の息子。上の子よりも下の子の方が頼りなく見えてしまうのは母のそれと同じですね(笑)。
そんな自分だけの「心配」と日々向き合いながら、子どもたちの「できる!」にエールを送る応援団になるべく、試行錯誤を続けていきたいと思います。

ではこの辺で功刀さんに次のバトンをお渡しします。

東京都/菅原典子 



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【参加費】無料
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日記を読んだ後の「もうちょっと聴きたい」、「もっと知りたい」を叶え、ざっくばらんに語り合い、お互いの経験や知恵を分かち合うこのカフェ。早いもので20回目を迎えます。
今回のテーマは「余計な口出しの心理に迫る!」。取り上げる日記は功刀知子さんの「余計な口出しをしないために」です。

言ったところで変わらない、むしろ状況を悪くする。後味も悪い。
そんな経験をたくさん積んでいても、なぜかまたしてしまう「余計な口出し」。
この日記を書いたハートフルコーチもそうでした。しかし、自分を諦めず、試行錯誤を続け、その過程で我が子の成長を実感します。

なぜ、それができたのか。その後はどうなったか。
などなど、今も試行錯誤を続ける筆者に直接尋ね、参加者同士の経験も分かち合いながら、あなた自身の「余計な口出しの代わりにできること」を見つけませんか?
ご参加を心からお待ちしています。

※ 前回までの様子はこちらでお読みいただけます。

2024年10月21日(月) No.696 (日記)

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