「怒り」の正体
菅原さん、息子さんの大学入学おめでとうございます。親の子どもに対する言動の影響力というのは実に深いものですね。
うちも今年大学受験なので、あらためて子どもの気持ちに寄り添った言動を心がけたいと思いました。
こんにちわ、東京の㓛刀です。
今回は近頃感じた自分の中の「怒り」の感情について考えてみました。
先週の日曜日のことです。その日は妹家族と我が家でランチ会をすることになっていました。今回のトピックは父が私たちに昼食をご馳走してくれることでした。
その1週間くらい前、日頃は財布の紐のかたい父が新聞に入っていた有名すき焼き店の折り込みチラシを手に、「よかったら、ここのお弁当をご馳走させてもらおうかな」と言ったので、私はウキウキ気分で電話注文しました。そんな私の様子に父は満足そうでした。
ところがランチ会当日の早朝、妹からLINEが入りました。甥っ子が深夜から高熱を出したため来られなくなったというのです。
「えーっ、残念過ぎる!!」というショックと同時に、元々身体が弱い甥っ子が40度近い熱を出していると聞いて心配になりました。続いて「ご馳走しよう」と言い出した時の父の嬉しそうな声や表情がまざまざと浮かんできましたが、次に続くメッセージを読んだ途端、私の心の雲行きは一気に怪しくなりました。
「もしそちらに迷惑じゃなかったらT夫(妹の夫)にお弁当を取りに行ってもらってもいいかな。余ったら困るでしょ? おじいちゃんの気持ちも嬉しいし」。
まずは「余ったら困るでしょ?」という文言に引っ掛かりました。さらに「おじいちゃんの気持ちも嬉しいし」の「“も”」にも引っ掛かり、「おじいちゃんの気持ちは次いでなの?」と腹が立ってきました。
頭に血が上ってきた私は間髪入れず、「そんな大変な時にこちらを気にしなくて大丈夫。みんなで分けて食べるから平気」と小意地の悪い返事をしましたが、どうにもこうにもモヤモヤが止まりません。そのうち、「お弁当を渡してなるものか!」というぐらいに血圧が上昇してきました。
私がこうなった時は危険信号です、頭の中で赤いサイレンが鳴り出しました。怒りのエネルギーに振り回されて理性が遠のき、下手したら相手との大事な関係を損ないかねません。これまでにそうやって人と何度か喧嘩になったことがあります。
私は妹と喧嘩したいわけではありません。妹だって甥っ子のことで大変な時だし、それにわざわざ弁当を取りに来るというのは律儀といえば律儀な話。ここで喧嘩などしたら後悔するのは自分に決まっています。
暴れ始めた怒りに乗っかるとロクなことにならないと経験上承知している私は、一旦深呼吸して、頭の片隅の理性を叩き起こして「オイオイ、何をそんなに苛立っているの? 何が気に食わないの?」と自問自答してみました。そこでもう一度、妹のLINEを読み返してみました。
「余ったら困るでしょ?」という表現から、お弁当が「モノ」として捉えられていると感じました。
お弁当は確かにモノです、消費物です。でも今回のお弁当は私にとって「モノを超えたもの」でした。「みんなに喜んでもらいたい」という父の愛情の賜物だからです。
しかしこの「お弁当」=「父の愛情」というのは私が勝手に立てた方程式で、普遍的なものではありません。私の中での父への感謝という次元に終われば問題はないのですが、家族共通の方程式だと思い込んでしまったのが良くなかった。
お弁当を広げながら、「おじいちゃんありがとう!」と口々に感謝し、三世代ですき焼きを頬張る昼下がりの平和な光景。そんなイメージを抱くことはもちろん悪いことでありません。そこで厄介なのは、そのイメージを父も描いているはずだと思いこみ、さらには妹夫妻も当然それを「共有すべき」と無意識に強要してしまっている点です。そのイメージを過剰に持ち込んだことが怒りの一因になりました。
これは今だから思うのですが、今回、私がもてなす当人だったらここまで感情移入をしなかったかもしれず、「父の願いだから」、「父が喜ぶように」という気持ちが過剰に膨らんだことで、その実現化に期待が膨らみ、結果、それが実現できなくなったことで怒りが生まれたのではないかと思います。家族といえども心の距離感は大切だなあと、しみじみ反省も。
そんなふうに今は思いますが、その日はある程度怒りを客観視できた一方で、モヤモヤした感情は持続していました。
結局、私の小意地の悪さは効果なく、義弟は車を1時間飛ばしてお弁当を取りに来て、後から妹が「美味しく食べました!」とメッセージを送ってきました。
義弟にお弁当を渡すときも、私の心はまだモヤモヤしていたし、不貞腐れたような気持ちもありました。しかしそんな心境は彼らに伝わっていないし、伝えてもいないし、伝えてはいけないとも思っています。前述した通り、この私の怒りに客観的な理由はないからです。
相手に完全なる非がある時、怒りを感じて相手を批判したとしても私の心がかき乱されることはありません。一方、客観的な理由が見つからない怒りの場合、その気持ちを言葉で表現できず、心が掻き乱されます。今回の怒りもそれでした。
そして怒りの発生源をよくよく見つめると、ランチ会ができなくて悲しんでいる自分に気づきました。父の思いを盾に怒り始めたものの、実は私自身の期待がくじかれて、とても悲しい気持ちになっていたのです。
怒りの激しさの影に潜む悲しみの感情。内向していく悲しみの感情を外に引っ張り出すために怒りが沸き起こってくるのでしょうか。この二つの感情は、私の中ではセットになっていることが多い気がします。
父に「妹がお弁当を取りに来たいんだってさ」と報告した時、「フフン」と静かに笑って終わりでした。すべてを達観するような「フフン」でした。
人はそれぞれ期待していることや大切にしていることが違います。私はそのことを頭の隅でわかっていながら、その日は敢えて「わかりたくない」と思い、不貞腐れていました。そんな私の稚拙さも父は愛情を持って理解してくれているようでした。
父は私の怒りに同調することなく、怒りのそばにある悲しみに寄り添ってくれたのです。何も言わない「フフン」のおかげで、私の心はそれ以上に掻き乱されず、怒りを感じた理由を静かに考えるチャンスへと繋がりました。
では、このあたりで和木さんにバトンを渡します。
東京都/㓛刀知子
★★★第22回「泣き笑い日記 オンライン・ホッとカフェ」★★★
日記を読んだ後の「ちょっと訊きたい」「もっと知りたい」を筆者に尋ね、参加者同士で気軽に語り合う季節ごとの恒例カフェ。今回取り上げる日記は「瀧澤かおるさんの「自分らしい選択」です。
【日時】2025年5月25日(日)10〜12時
【参加費】無料
【方法】オンライン(ZOOMを使用します)
【お申し込み】https://ssl.form-mailer.jp/fms/d81b8e93806528
海外で暮らす筆者には、「仕方ない」と諦めていたところがありました。今は違います。分岐点は「自分で選ぶ」ことでした。
「自分で選ぶ」と、何が変わるのか。なぜ変わるのか。日記をさらに掘り下げたり、経験や気づきをシェアするなかで、あなたの子育てや自己成長に活かすヒントを持ち帰りませんか。
※ 前回までの様子は、こちらでお読みいただけます。
2025年05月05日(月)
No.724
(日記)