好きなコトが辛かった訳
こんにちは。東京の菅原です。
料理は、昔から私の好きなことの一つです。献立を考えながらスーパーの特売をチェックする時間も大好き。
なのに、仕事帰りにスーパーに寄って、帰宅後、息つく間もなく夕食を作る毎日が、ある時期から苦痛になっていました。
「好きなことなのに、なぜこんなにストレスを感じるのだろう?」
家族のために美味しいご飯を作りたい気持ちはあるのに、帰宅後の私は大抵不機嫌。
重たい買い物袋をぶら下げて帰宅すると、仕事の疲れとは別の憂鬱な気持ちに襲われます。
一番の原因は時間の余裕がないこと。献立を考えて、買い物して、急いで作る・・・この一連の流れが、「やらなきゃいけない義務」になっていました。
タイムトライアルのように30分で作り終えた時はなんともいえない達成感があるのですが、でもその分、気力体力はすり減ります。自分の時間管理のせいと思いつつも、なんとなくズルズルと過ごしてしまっていました。
そして、また別のモヤモヤは、ほぼ同じ時間に帰宅する夫が、私が夕食作りに追われている横で、ソファでくつろぎながらテレビを見ていること。その光景に、不公平感や「やらされている感」を覚えてしまうのです。
「手伝って」と言えばやってくれる。でも、少しでも面倒そうな顔をされたり、「ちょっと待って」と言われるのが嫌。時間がないのだから、こちらのタイミングでやってほしい。
私は何も言わずに黙々と料理をしていますが、心の中では「何かやろうか?」という言葉をずっと待っていました。その期待が叶わないから余計にイライラ・・・。
夫も気を遣ってくれ、「何か買ってこようか?」とよく言ってくれます。
大学生の娘も、「大変なら無理に作らなくていいよ」と言ってくれます。
でも、私は基本的に手作りの料理が食べたい。経済的にも栄養的にも、そして何より味の面で、手料理が一番だと思うから。
友人から、おかずの宅配サービスを勧められたこともありますが、費用を考えると結局は自分で作ることを選んでいます。
ある時、気づきました。
あれ、私、「やらされている」って思ってイライラしているけど、ちゃんと自分で選んでるんじゃない?
夫も娘も「作らなくていい」と言ってくれるし、巷には便利なサービスもある。つまり、私には選択肢がある。
作らない選択もできるのに、私は毎回「手料理を食べたい」=「自分で作る」と、自ら選んでいるのです。
それって、家族のために「やってあげている」もあるけれど、自分が食べたいから「やっている」んだ、と。
そう思ったある日、夫の「おかず買ってこようか?」という申し出を断り、「今日は生姜焼き作るから大丈夫!」と宣言しました。
(その日、無性に生姜焼きが食べたかったので)
作るものを自分で決めて、それを夫に伝えた瞬間、不思議と気持ちが前向きになりました。
スーパーでの買い物もいつもよりスムーズ。帰り道の足取りも軽やか。
その日は、夫がソファでくつろいでいても気にならないし、むしろ鼻歌まじりでクッキング。
あぁ料理はこうでなくっちゃ、と気分も上々。
ひとつわかったことは、自分を楽しくするのも、辛くするのも、自分次第だということ。
「やらされている私」から「自分で選んでいる私」に変わっただけで、こんなにラクになるなんて。
イライラの元を作っていたのは、他でもない自分だったんだと実感しました。
私は、「やらされている自分」でいることで、「疲れているのにがんばるいいお母さん」と家族から思われたかったのかもしれません。労ってほしかったのかもしれません。
ルンルンで料理していたら、疲れていることに気づいてもらえませんから。
また、更に快適な夕方を過ごすために、自分の苦手な時間管理についても見直してみました。買い物や献立決めを計画的にやるとか、作り置きレシピも研究してようと思います。
「労ってほしい」という気持ちは、今も私の中にありますが、よくよく考えると、「ありがとう」などの言葉より、実際に代わってやってくれるとか、一緒にやってくれることを望んでいる自分にも気づきました。私の苦労も知ってよ!というのが素直な本音。これからは、「誰かご飯代わりに作って!」と、適度にSOSやヘルプ要請を出して自分を労うことも大切にしていこうと思います。
今後もいろいろな場面で被害者モードになりそうなときは、自分に問いかけようと思います。
「やる?やらない?」「頼む?それとも自分でやっちゃう?」
その選択権は、いつも自分にある。
私の場合、趣味の料理がイライラになっていた原因は、自分勝手な「期待」と「時間の使い方」、
そして、ラクになるカギは「自分で選ぶ」こと。
そう思えたら、毎日がちょっと軽やかになる気がしています。
ではこのへんで、次なる功刀さんにバトンをお渡しいたします。
東京都/菅原典子
2025年09月01日(月)
No.742
(日記)


