人を羨ましいと思うこと
功刀さんの日記を読み、子どもが立ち止まれる場所を提供するという言葉にハッとしました。もし我が子が「停滞」の状態になった時でも、その時間を意味のあるものとして捉え私自身が落ち着いていたいなと思いました。
こんにちは。広島の和木です。
先日、昔の自分の悩みを思い出すできごとがありました。子どものリクエストで、新幹線を見に広島駅に行った時のことです。
ちょうどお盆休みの最中だったので、いつもより混雑していました。さてそろそろ帰ろうかと娘と二人で、人をかき分けながらホームを歩いていたら、突然小学校低学年くらいの男の子が私たちの目の前に現れて大きな声で話しかけてきました。大きなスーツケースを引っ張って、少し後ろにはお母さんらしき人。その親子はラテン系の顔立ちをしていました。切符を指さしながら「どこ!」と言っていたので、乗り場が分からないのだと察しました。
言葉では伝わらなかったので、結局新幹線に乗るところまで一緒に行き、無事見送ることができました。新幹線に乗り込むとき、お盆休みにうちに遊びに来ていた友だちかのように、「バイバイ!」とお互い笑顔で手を振りました。数分の出来事、出会いでしたが、とても楽しい思い出になりました。
その男の子の様子や、娘が手を振る姿を見て「いいなぁ」という思いがこみ上げていました。新幹線の所まで行くときにした身振り手振りのコミュニケーションや、男の子の笑顔がとても印象的で、実はその時の子どもたちの様子にも「いいなぁ」と思っていました。その気持ちは言葉にすると、「知らない人と笑顔で話せて羨ましいなぁ」「すぐに仲良くなれるようなコミュニケーション力の高さ、かっこいいなぁ」という感じです。
私は、特に高校生の時、人と仲良くなるということにとても苦手意識がありました。人と仲良くなる=たくさん友だちがいることだと思っていたので、誰とでも話ができる人や、いわゆる明るい子に対して、いつも「いいなぁ」「羨ましい」「ああなりたい」という気持ちをもっていました。
ちょっと勇気を出して話しかけてみようにも、相手のことを気にしすぎて話題に困り、緊張してしまって会話が続かず。そしてそれがまた次へのハードルを上げることになり...当時はそういう自分が根暗だと思っていました。
大人になってから、社会の中でたくさんの人と仕事をしたり、いろんな人の関わり方を見れたおかげか、人は人と思えるようになった気がします。そう思えるようになったきっかけは、海外移住だとすぐに思い当たりました。
やはりそこで出会った人たちの存在は大きかったです。なにせ異文化のかたまりですから、今までの自分や周りにいた人たちとは全然違いました。
例えば、約束の時間になっても来ないと思って連絡したら、まだ家を出たばかりという人たち。でも誰も怒ったりイライラせず「お茶してよう、あ! あれおいしそうね!」です。
時には「日本人(私)がいるから、遅刻したらだめよ!」なんて冗談めいたことも言われましたが、私が時間を気にしてピリピリしていたとしても、「こんなことくらいで」とか「気にしなければいいのに」ではなく、それを私の考え方としてきちんと尊重して気遣ってくれる人たちでした。
仕事中会議の場であれば、ケンカのようなやり取りに発展する議論も起こり、「そこまで言うの!?」と驚く場面も何度もありました。その後でギスギスした雰囲気になるようなこともなく、白熱する人たちの話を聞きながら果物を食べている人、どちらかの応援団で何か言いたそうにうずうずしている人、縮こまっている人、他の仕事をしている人‥‥はじめは、会議の内容よりそっちがおもしろかったくらいです。
いろんな人がいましたが、きちんと全員が何かを話し、何かしらの結論が出て「いい会議でしたね」と締めくくられます。その時私は「何て思われるかな。批判されちゃうかな。聞かれたことに対する答えになってるかな」と不安ながら自分が勇気を出して話したことも受け止めてもらえたような気持ちになったのを覚えています。
ファッションもそう。老若男女問わず自分が好きなメイクをし、好きなものを身につけている人が楽しそうに歩いている姿を毎日のように見ました。
私がそんな人たちから感じていたのは、いい意味で、他の人は関係ないという感覚です。そして「自分らしさ」という言葉も自分の中に取り入れられた気がします。なんて自然体なんだ、あんなふうにすれば、自分らしさが表に出せるのかと勉強になりました。
考え方、話すこと、身につけるもの、好きなもの...それらは全部自分が自分のために選ぶもので、誰がどう思うかを第一に考えていては、「自分」ではないな、と思いました。
生活を始めたばかりの時は、日本人だからとか、迷惑をかけないようにとか、失敗して恥ずかしくないようにとか、身も心もこじんまりしていましたが、月日が経つにつれて、だんだんとのびのび過ごせるようになりました。
現地色に染まってから10年ほどで帰国し、初めて日本の会社に就職しましたが、そこでは逆カルチャーショックが待っていました。今までとは全く違った雰囲気でしたが、「自分らしさ」の土台が少しばかり強くなっていたので、その違いを楽しんだ自分がいました。
でもやっぱり、今でも初めて会う人との会話は緊張でドキドキしてしまいます。ただ、気質やコーチングなど人との関わりを知り、相手のふるまい方だとか、物事の捉え方だとか少しだけでもヒントを見出せるようになり、緊張する自分を俯瞰しているようにも思います。
そして、誰かに対して「いいなぁ」と思うこと。それも、自分にはできないこと、自分にはない力だから羨ましいというより、その人らしさがそのまま見えているようでステキだと感じるようになりました。
高校生の悩める私には想像もつかなかった今の私の心の中です。今の自分にホッとしています。
経験と学びのおかげで、そもそもグイグイ前に行くタイプではなかったこと、自分は根暗な性格である決めつけてマイナス思考になっていたけど、ただ人のことを気にしすぎていただけだったということに気付くことができました。
たくさんの人と学びに出会い、自分にはない考え方、物事の受け止め方、自分自身について深く考えることを知らなければ、まだ自分は根暗だと思っているかもしれません。
誰かに対する昔の「いいなぁ」は、どうしても「私」をできていない、そうなれていない自分と比較するため息交じりのものでしたが、同年代の人だけでなく、ずっと歳の離れた人や子どもにまで思う今の「いいなぁ」は、単に人の良いところを見つけただけの、にっこりなものになっていると感じています。
これからも存分に「いいなぁ」とにこにこしたいと思っています。
最後までお読みくださり、どうもありがとうございました!
それでは次の藤岡さんにバトンタッチ。
広島県/和木 郁
2025年09月15日(月)
No.744
(日記)


