母と娘と、台所の距離
松下さんからバトンを預かった中泉です。
フラットに話せる家族との関係──私は47歳にして、いまだ訓練中です。
毎年この時期になると、胸の奥が少しざわつきます。
それは、お正月の実家への帰省について。母から必ず、「今年はどうする?」と聞かれることが分かっているからこそ、ここ数年、私は旅行やイベントをあらかじめ入れて帰省をうまく回避してきました。昨年は長男が受験生だったため、「お正月も塾があるから」というもっともらしい理由で切り抜けました。
思えば、いつからお正月の帰省を避けるようになったのでしょうか。
毎年、弟家族は神奈川から実家に帰省します。義妹(弟の妻)は本当によく気が利く人で、実家の台所に母と義妹が立つと、阿吽の呼吸で次々と事が運んでいきます。
私はその様子を見て、「私の役割は子守りだ」と自然に決めました。雪の中でも子どもたちを外に連れ出し、公園で遊び、みんなをまとめて寝かしつける──そんなふうに“自分の居場所”を作ってきたのです。
けれど、子どもたちが成長し、自分たちで過ごせるようになると、私は手持ち無沙汰になりました。主人や弟たちに紛れて会話に参加しつつ、遠巻きに台所を眺める。それが私のお正月の過ごし方になっていきました。
「この家で私の役割は、義妹が居心地よく過ごせるようにすること。彼女が望んで立つ台所という居場所は、私が奪ってはいけない」。
そう心に決め、耳を全力で台所に傾けながら、いつ母から声がかかっても動けるようにスタンバイする……。その緊張感こそが、私をぐったり疲れさせていたのかもしれません。
ある年の正月、母が別室から戻ってきたときのことです。台所へ入るなり、小声で義妹にこう言いました。
「ごめんね、A子ちゃん。うちの娘がほんま、家のことなんもせんと。あの子の育て方、私が間違ってたんやわ。気が利かない娘で、あんたにばっかりやってもろて…」
私は、その場ですべて聞いていました。
この先もいくつか批判の言葉は続いたのでしょうが、はっきり思い出せるのはこのあたりまで。きっと、私の脳が上手に忘れてくれたのでしょう。ただ、そのときの義妹の、何とも言えない気まずそうな表情だけは今でもはっきり覚えています。
反論しなかったのは、私の正論と母の正論がぶつかるのが目に見えていたから。
私の目的はあくまで「嫁姑が仲良く過ごすこと」。自分にそう言い聞かせ、あの場をやり過ごしました。
そして今年。私は少しだけ違う自分になりました。
母の「冥土の土産に行ってみたい」という希望で、大阪万博を一緒に訪れた帰り道。母とは異なる意見を言う私に、母はこう言いました。
「あなたはもう立派な社会人やね」
その母のひと言を聴き、意を決して、長年胸にしまいこんでいた言葉を口にしたのです。
「お正月のことなんやけど。お母さんがいつも一人で立っている台所に女3人もいたら動きにくいやろうし、Aちゃんはお母さんと話すのを楽しみにしてるみたいやから、私は台所には立たないようにするね。でも何かはしたいから、おせち料理とか晩ごはんの準備は私が持っていくようにするね。そんな感じでどう?」
母の反応は、拍子抜けするほど素直でした。
「えー持ってきてくれるの? それは助かるわ。A子ちゃん、お母さんと話すの楽しみにしてくれてるように見える? それは嬉しいわ!」
過去の嘆きの言葉など、母の記憶にはもう残っていないのでしょう。確認するまでもありません。
私が言葉にしようと思えたのは、自分の気持ちを時間をかけて整理できたからです。母の声を耳にした当時は感情が大きすぎて、うまく向き合うことができる自信がなかったのだと思います。
そう考えると、この長い歳月が私には必要だったのかもしれません。
今回この文章を書くことで、私は改めて気づきました。
あのとき、私は傷ついていたのだと。
長い時間を経て、やっと言葉にできたことで、その時の心の痛みがすっと成仏していくような、不思議な感覚を味わっています。言葉にすることは、過去の自分を解放する行為なのかもしれません。
「手放すために言葉にする」そんな感覚です。そうして初めて、自分の中の小さな棘が溶けていくのを感じました。
そしてさらに、30年以上も前に亡くなった祖母との記憶が蘇りました。
母と祖母の関係は決して良好ではなく、二人が一緒に台所に立つことはありませんでした。
母はいつも、その関係に悩んでいました。
もしかすると、私が母と義妹の良好な関係にこだわってしまうのは、そんな母と祖母の姿がどこか心に残っていたからなのかもしれません。
さぁ、今年のお正月。私の面持ちはいかほどでしょうか。長年のわだかまりをひとつ手放した私。
新しい年は、少し軽やかな気持ちで迎えられそうな予感がしています。
それでは、安部さんにバトンを繋げます。
大阪府/中泉あゆみ
2025年10月13日(月)
No.748
(日記)


