「察してほしい」の心の奥
こんにちは。東京の菅原です。
日常の何気ない出来事から、ふと気づいたことを綴ります。
ある日、地元の循環バスに乗ったときのことです。膝を痛め、重い荷物を両手に持った私は、できれば座りたいと思っていました。
でも、ミニバスの座席はほぼ満席。後方に向かうと、四人掛けの席に三人の女性。70代くらいの女性が荷物を隣に置いて一席をふさいでいました。私が近づいても詰める気配なし。「座りたいな」と思いながらも、「すみません」と声をかけることはしませんでした。何度かチラっと見るけれど、女性はスマホに夢中で、私の存在には気づかない様子。「気づいてよ…」という心の声が頭の中でぐるぐる回ります。
「言えないなら我慢するべき」と自分に言い聞かせつつも、詰めない相手にも、何も言えない自分にもイライラ。女性のマナーに腹が立つ一方、「高齢者には優しくすべき」という私の正義と、「図々しいと思われたくない」という気持ちが入り混じってなんとも複雑な心境でした。Pause
途中で座ることができ、ほっとする気持ちの奥で、モヤモヤする気持ちはまだ残っていました。荷物で席をふさいでいた女性への不満、座りたいことを伝えられなかった自己嫌悪、そして「気づいてほしい」「察してほしい」という自分の中の強い欲求にも気づきました。
きっと目が合えば、女性は荷物で席を塞いでいて座りたい人(私)が困っていることに気づくはず。いや、気づくべき。そんな勝手な期待や「べき」が自分の中で膨らんで、ますます「すみません」と言えなくなっていました。
自分で行動せず、相手に気づいてもらって動いてもらうことを期待している自分。その「察してほしい」気持ちが、結局は自分を苛立たせていたのです。
そんな場面、日常にもよくあります。
「疲れているのに夕飯を作っている私」に気づいて労ってほしい、「家のことをしている私」に気づいて感謝してほしい。「みんなが心地よくなるように気を配っている自分」に気づいて認めてほしい。
でも、それはすべて私の一方的な期待。察してほしいと願い、それが叶わないと勝手にがっかりしてしまう。自分の中の“答え”に合わせて相手を動かそうとしているのです。
気づいてもらった先に、私が求めているものは一体何だろう、と考えてみると、「ありがとう」という感謝の言葉や労いよりも、「わかってるよ」「見てるよ」と、私に関心を向けてくれること、思いや努力を理解してくれること、なのではないかと気づきました。
でも、何も言わずに他人の期待に気づくことって簡単ではありません。
家族との日常の中で、繰り返し起きるやりとりで、あることに気づきました。
家事をお願いしたとき、少し間違ったやり方をされたり、思っていた通りにしてくれなかったりすると、つい「そうじゃなくて!」とイラッとしてしまいます。
そのたびに、夫や娘から返ってくるのは「だったら初めに言ってよ!」という言葉。
実は、私も実家に帰ったとき、母に「気が利かない」と怒られ、
まったく同じように「だったら初めに言ってよ!」と反発したことがありました。
両方の立場を経験し分かったことは、「言葉で伝える」ことの大切さと必要性。
言葉にすることで、こちらの思いも伝わるし、ズレや誤解が生まれずに済む。
そこで私は、「察してほしいことを言葉にする」ことを意識し始めました。
困りごとや理由を添えて、「だから〇〇してくれると助かるんだけど」や、「できそうな時間ある?」など、相手の都合や感情も考慮した言い方を心がけるようにしました。
一方で、言いにくいと感じたり、自分でやっちゃおう!と決めたときは、相手に一切期待しない。期待するのは、相手ではなく自分自身、そう考えると、心がずいぶん楽になっていきました。
それでも“察してほしいスイッチ”は時々入ります。そんなときは「出た出た」と軽やかに自分を観察。「今私は〇〇を期待しているな」と頭の中で言語化すると、それが自分だけの思い込みだと気づくことができます。そして、言うか言わないかを自分で決めていく。自分の願いに気づき、それを実現するために自分で決めて自分で動く。今までの私にはなかった行動です。
あの日のバスでの出来事は、人にイライラしながらも、「言えない自分」「気づいてほしい自分」に向き合う時間になりました。
人は思ったほど自分を見ていないし理解していない。私も同じく。だからこそ、「察してほしい」「気づいてほしい」と思う前に、“伝える勇気”と、“伝えないと決めたら期待を手放す覚悟”を持つことが大切だと改めて感じました。
油断すると、家族にはつい強い言い方になってしまう私。相手と自分のために、よりよい伝え方をこれからも模索していきたいと思います。
それでは次なる功刀さんにバトンをお渡しします。
東京都/菅原典子
2025年11月03日(月)
No.752
(日記)


