リビングのBluetooth事情
大阪の中泉です。
とある教室で、「誰にとっての『快』なのか」という話を聞いた。
食事の時間くらいはテレビを消して、家族でゆっくり会話を楽しみたい奥様。
一方、ご主人はテレビを観ながら、みんなで笑ったり話したりして食事を楽しみたい。
奥様は「テレビを消したい」。ご主人は「テレビをつけたい」。
一見、正反対。
でも二人とも、「家族で楽しい食事の時間を過ごしたい」という思いは同じだった。
違うのは、それぞれが「心地いい」と感じる状態。
なるほど。「誰にとっての『快』なのか」。そんな話を聞きながら、ふと我が家のことを考えた。
次男は、リビングでよくイヤホンをしている。Bluetoothでつないで、自分の好きな世界へ没入するのが心地よいそう。こちらが話しかけても反応がないと、「ちゃんと聞いてくれてるの?」と、私はイライラする。
一方、長男は真逆。自分の好きな音楽をBluetoothでつないで、リビング中にかき鳴らす。イヤホンの次男。大音量の長男。足して2で割ってくれたら、ちょうどいいのに。
次男には、「イヤホンをするのはいい。でも、ママが話しかけた時には答えてほしい」
長男には、「音楽を流すのはいい。でも、インターホンが鳴った時とママに電話がかかってきた時は、ボリュームを考えてほしい」と伝えている。
ここまでは、まあいい。
「イヤホンを外しなさい」でも、「リビングで音楽を流すな」でもなく、お互いが気持ちよく過ごすために、してほしいことを伝えているつもりだ。
でも、問題はその先。
二人とも特に何も悪いことをしていないのに、無性にイライラする日がある。
長男の音楽が、やたらとうるさく感じる。
次男がイヤホンをしている姿を見ただけで、「また自分の世界に入って!」と思ってしまう。
これは、完全に私自身の問題だ。
同じ音量でも、平気な日は平気。次男がイヤホンをしていても、気にならない日は気にならない。
ということは、音の問題だけではない。
たぶん私の中に、「今日はもうこれ以上、刺激を入れたくない」という日がある。
逆に、「今はちょっと、こっちを向いてほしい」という日もある。
子どもたちは、昨日とそれほど変わっていない。変わっているのは、私の余白なのかもしれない。
ここまで考えて、もう一つ気づいた。
私はもしかしたら、家族にはどこかで、「言わなくても、ちょっとくらい察してよ」と思っているのかもしれない。
「ママが疲れてるの見たら分かるやん!」「電話してるんだから、音は小さくするべき!」「話しかけてるんやから、普通イヤホン外すやん!」
長男からすれば、好きな音楽を家族のいるリビングで流すことが心地いいのかもしれない。
次男からすれば、家族と同じ空間にいながらイヤホンで自分の世界を楽しむことが心地いいのかもしれない。
そして私は、疲れている時には静かなリビングで過ごしたい。
誰も間違っていない。
なのに私は、自分の「快」を言葉にしないまま、相手がそれを察してくれることを期待して、察してくれないことにイライラしていたのかもしれない。
イライラの奥を覗いてみると、怒りというより、小さな「お願い」が隠れていた。
「今日ちょっと疲れてるから、少し音小さくしてくれる?」
「今ちょっと話したいから、イヤホン外してくれる?」
それで息子たちは分かってくれる。
さらに、もうひとつ。
「これは私の問題なんだ」と気づくと、私は時々、違う方向へ行きそうになる。
私が我慢すればいい。
でも、それも違う。
自分も相手も大切にするということは、相手の「快」を尊重するために、自分の「快」を諦めることではない。
自分の機嫌は、自分で引き受ける。でも、自分の希望は、ちゃんと相手に伝える。
疲れていることを長男のせいにしない。寂しい気持ちを次男のイヤホンのせいにしない。
でも、「今日は静かに過ごしたい」「今はこっちを向いてほしい」は、言っていい。
そして時には、私が自分の部屋に避難するのもあり。
家族なんだから察してよ、ではなく、家族だからこそ伝える。
私にも、静かに過ごしたい日がある。誰かとつながっていたい日もある。一人になりたい日もある。
それぞれの「快」は、その日によっても変わる。
考えてみれば、家のリビングも小さな社会だ。自分の気持ちも相手の気持ちも大切にして伝え合う練習ができる場所なのかもしれない。
リビングという共同空間で、それぞれ違う心地よさを持って暮らしている。
折り合いをつけながら、相手の「快」も大切にして、自分の「快」も置き去りにしない。
今日も我が家なりの「ちょうどいい」を探している。
それでは小原さんにバトンを繋ぎます。
大阪府/中泉あゆみ
2026年08月17日(月)
No.794
(日記)


