見守る(その2)
すっかり秋の陽気となりました。群馬の渡辺照子です。
植松さん、「知って欲しい」「成功体験をして欲しい」という状態から、「見守る」というスタンスに移行なさったプロセスに、“あっぱれさ”を感じました。
幼かったときお母さんがやさしく見守ってくれたことを、植松さん思い出されていましたね。私自身は「見守る」ことは、子どもが幼かったときよりも、今の方がずっとできるようになったと思います。しかし、子ども達が二十歳になったこの頃も、時に見守れない時があります。自分としては、こう思うんだ!こう感じるんだ!ということを、つい口出ししたくなってしまう。特に、子どもたちの進路(キャリア)などに対して。
私の母も、私にとって見守り型の存在です。エピソードを一つ。
大学卒業後、公立中学の教員になり、初めて担任になりました。私は生徒たちに、「私は学校の中で一番年齢があなたたちに近いから、あなたたちの理解がしやすいよ。味方だよ」というオーラを発していたのですが、最初の内それは伝わらず、「変なおばさん」というまなざしで、見られてい
た気がします。
なんで生徒たちとの距離を縮められないのだろうと焦る日々。教科の指導も、部活指導もままならない上に、問題行動のあった生徒さんの対応、不登校の生徒さんの対応、朝から夜遅くまで学校に居続ける毎日。
当時、私は一人アパートに暮らしていました。ある日帰宅したのが、22時過ぎ。
私は疲れ果てていました。体力的にも。精神的にも。うっかり部屋の鍵を、車のフロント部の奥の
方に落としてしまい、部屋に入れなくなってしまいました。車で2時間以上もかかる実家に深夜ではあるが帰ろうと、疲れた体をだましだまし運転して家に着きました。
私は、日々のつらい状況を母には一言も話していませんでした。母は、私を歓迎してくれて、「照子、一緒に寝よう!」と声をかけてくれました。母の隣に布団を並べて、体を横たえました。電気の消えた暗闇の中で、母が話し出しました。
「母ちゃんは、お前たち4人姉妹を柳の下の蛙だと思っている。一生懸命、柳に飛びつく蛙だと思っているよ」と。それを聞いて感極まり、母に聞こえないように、布団をかぶって泣いたことを覚えています。
翌朝、朝日の中、私はいつものように学校に通勤しました。本当はもうやめてしまいたいくらいに思っていた日々でしたが、母の寛大な受け止めとメッセージに勇気づけられ、見守られていることを感じて、気持ちを取り直すことができたのだろうと思います。
今、親になってみて、興味深く、母のことを思います。当時、社会人の入り口で、危なっかしい状態だった我が子を、どうして口出しなどせず、見守ることを母はできたのだろう?
当時母は、民宿経営と農業を兼業していました。日々は忙しかったはずなのにな・・・。
見守るという心の大きさをどうやって保っていたのだろう・・・。
この春、母が短い期間入院したことがあって、面会に行ったとき、かなりゆっくり話せる機会があり、こんなことを言っていたのを思い出しました。
「母ちゃんは、畑に行って作業をする時間が大好きだ。ラジオをかけて、アナウンサーの言葉に耳を傾けたり、鳥のさえずりしか聞こえない静けさの中で、子ども達のことを想う時間が好きだ」と。
忙しいなかでも、私たち姉妹のことを、客観的に想い、感じてくれる時間を持ってくれていたのだなと感じ入りました。
今の自分はどうかな? 自分が子どもに、“こういう方がいい” “ああする方が上手くいく”という自己中心で思うでのない、ただ、ただ、子どもたちを想う時間をどれだけ取れているだろう。
母にとっての農作業のような時間・空間を、私は今の暮らしの中に、どんな風に創り出そうかと、いま思いを巡らせています。
バトンは、加藤くりちゃんへ。 ところで、くりちゃんは、栗は好きですか?
群馬県/渡辺照子
2016年10月03日(月)
No.269
(日記)