ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

信じることの意義


バイアス=排除すべきもの、という感覚でした。しかし、瀧澤さんの日記を読んで、バイアスは自分自身のものの見方、ひいては価値観であり、それは気質や環境によって育てられた私そのもの。排除するのではなく、知ることが大切だなと思います。

インドネシアの鈴木です。
今回は、「子どもを信じることの意義」について書きたいと思います。

ここジャカルタでは、小学生は保護者の送り迎えが必須。
我が家は学校から徒歩5分の距離にあるため、ほんのわずかな時間ではありますが、息子と一緒に歩く時間は貴重なお喋りの時間。学校での出来事が消化しきれていない帰りの時間は、楽しかったこと、嫌だったことが感情のままに出てきます。

そんないつもの帰り道。息子が、
「先生がChatGPTを使わなかったか? って聞くんだよ」
と話すのです。
何ごとかと思ったら、その週の月曜日に提出したストーリーについて、「ChatGPTを使わなかったか?」と先生から尋ねられたとのこと。
息子が「使っていない」と答えたところ、先生は「そんな顔で私を見るんじゃないよ。確認したんだからね。両親とも話をする」と言っているようです。

ここ数週間、休日返上で宿題のストーリーを書いていた息子を知っている私は、反射的に「それを言ったら生徒と教師の信頼関係がなくなる」と反発しました。
「使ってない」と息子が言っているにも関わらず、さらに親とも話をしなければならないのでしょうか。
明らかにがっかりした様子の息子を見て、先生に受け止めてもらえなかったことで彼はこの数週間の自分の努力をつまらないものと思ってしまわないか、とある種の焦りも感じました。

その後先生と面談をしてわかったことには、評価対象となる生徒の提出物については、ChatGPT探知アプリにかけることになっているとのこと。そのアプリで「これはChatGPTを使った可能性がある」と判断されたものは、生徒に対して使用の有無を確認するのだという。
そのような生成AIの活用について手探り状態の教育現場の現状を知り、また、先生も息子に悪いことをした、謝ると言ってくれたことから、私も、今回のことは新たなテクノロジーが一般化する過程での出来事と納得しました。

ただ、今回の件を通じて、この「自分の言動を信じてもらえない」ということに私はとても強く反応することにも気づきました。ものすごく悔しく、腹立たしく、強い怒りを感じるのです。
私のこの怒りを伴った反応はどこから来るのだろう? と考えていたら、子どもの頃の母とのエピソードを思い出しました。

それは私が小学校2、3年生の頃。マンションの屋上で遊んでいたのを近所のおばさんに見つかり、消防署に連絡されたことがありました。
その頃の私は、自分の好奇心を満たすためには、いわゆる「やってはいけないこと」もやる子どもでした。その日も、マンションの外階段の先にある柵を乗り越え、今考えれば落ちたら一巻の終わりという壁を伝い、マンションの屋上へ行って遊んでいました。そこは私にとって誰も来ることのできない(屋上の鍵を持っている管理人さんのみ来ることのできる)、一人落ち着ける秘密の場所でもありました。
ただ、屋上は柵もない、大人から見れば危険極まりない場所で、私の影を見た大人たちが、最近子どもが屋上で遊んでいるから何か対策をしなければ、という話をしていることは母からも聞いていました。

そのような折に、また私が屋上にいるところを近所のおばさんに見つかり、この度は「そこには入ってはいけないよ!」という声が聞こえました。
私は急いで壁伝いに階下の自分の家に戻り、素知らぬ顔をして本を読んでいると、家に電話がかかってきました。母が誰かと話しています。
私は母に呼ばれ、「今日、屋上に入って遊んでた?あなたみたいな子を見たっていうんだけど」と尋ねられました。
私は咄嗟に「知らない」と答えました。
母はもう一度、「行っていないのね。」と私に聞き、母に嘘をついているうしろめたさを感じながらも私が「行っていない」と答えると、「うちの子は行ってないと言っています」と言って、電話を切りました。

その日は、子どもが屋上から降りられなくなっているとでも通報されたのか、はしご車まで来ましたが、私はその後母から何も聞かれることはありませんでした。
私は、嘘をついている私がそのまま受け止めてられてしまった居心地の悪さと、おっかない近所のおばちゃんに「あんたでしょ!」と責められそうになったところを母に守ってもらえた安堵との間で、複雑な気持ちでした。

と同時に、私は、母が私の言ったことをそのまま受け止めたことで、自分がやったことに対する責任を持たざるを得なくなりました。危険なことをし、嘘をついている自分を認識し、はしご車まで来てしまった事実を受け止め、して良いことと悪いことの線引きを学んでいたのだと思います。
そして、「母は私が嘘をつく子ではないと信じている」ことを理解した私は、「自分を信じている母を裏切ることはできない」と思いました。

息子のChatGPT事件に強く憤った私でしたが、その反応の奥にあるものを覗いていくうちに、私自身が、母の私に対する信頼によって大きく支えられているのだ、という事実に気づきました。そして、母の信頼を二度と裏切るまいという私の信念が、信じてもらえないことに対する強い反発となって現れるのだということにも。

小学生の頃から大好きだった黒柳徹子さんの著書『窓際のトットちゃん』の中で、校長先生が「君は、本当は、いい子なんだよ」といい続けてくれた、それがトットちゃんの一生を決定したかも知れないくらい、大切な言葉だったというくだりがあります。
母が私を「優しくて、正義感のある、いい子」と信じ、時に言葉で、時にその在り方で伝え続けてくれたことは、私が私を創る根っこの部分を大きく支えてくれているのだなと思います。

それではこの辺りで、石垣さんにバトンをお渡しします。

インドネシア/鈴木真理恵






No. PASS