ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

バイアスとの向き合い方


チャウさんの日記を読んで、レジリエンスを育むことは人生を謳歌するために必要なことだなと改めて感じるとともに、ネガティブな感情に寄り添い受け止め言語化することを自分に対しても、周囲の大切な人に対してもしてきたかな、と振り返るよいきっかけになりました。
ついついネガティブな感情を避けようとしてしまいがちな私ですが、レジリエンスを育むチャンス到来と前向きに、寄り添い受け止めたいと思います。

タイの瀧澤です。
先日、大学のオンライン授業でバイアスについて話し合う機会がありました。バイアスとは思考や判断の誤り、歪みのことで、誰にでもあるものだそうです。

思考や判断を誤らせるバイアスに、私はネガティブなイメージを持っており、自らが持つ認知の歪みをなくしたいと意識して過ごしているつもりでした。にもかかわらず、その授業で行った確証バイアスの例を挙げるアクティビティや心はどこにあるかの問いについて考察し意見交換をした際に、自らが気付かないうちにバイアスをかけていたことに気が付かされるという体験をしました。
この体験をしてから、これは私の中でバイアスが発生していたのだな、と思った出来事がありました。

以前から私は、「娘の同級生たちは家で色々と話しているのに、どうしてうちの子は学校での出来事を話してくれないのだろう?」と悩んでいました。
話してくれないと何か問題が起こった時に、私だけ知らずに対応が遅れるのでは、と不安に感じていたのです。それに、話してくれないということに対して、私は信頼されていないのでは、娘と良い関係を築けていないのでは、と不安に感じてもいました。

ある時夫に、「娘はあまり学校での出来事を話さないよね」と言うと、夫は「そうかな。娘と二人でお出かけした時とか、興味深い話をたくさん聞かせてくれるよ」という返答が返ってきました。
え? そうなの? と意外に思い、どんなことを話しているの?と聞くと、私もなんとなく聞いたことがあるような話でした。

そこで、これまでのことを振り返ってみることにしました。夫の言う通り娘は学校での出来事を話してくれていたかもと思い当たるふしがあったからです。
すると、「今日の給食は美味しかった」、「教室に虫がいた」、などたくさんではないけれど確かに話してくれていたなと記憶が蘇ってきました。

娘は話してくれているのに、なぜ私は話してくれないと感じていたのか。
私は、例えば「○○ちゃんと××君とこんなことして嬉しかった」、「△△ちゃんにこんなことを言われて悲しかった」など、お友達や先生とのやり取りから感じたことを話してほしいと思っていました。
そんな私が聞きたいと思うことに意識を集中していたために、娘が娘なりに学校での出来事を話してくれていたにもかかわらず、受け取れていなかったのでは、自分の欲しい情報だけを集めようとしてそれ以外の情報を無視しようとする、そんなバイアスがかかっていたのではと気付き、愕然としました。

最初に感じていた、話してくれない=娘と良い関係を気付けて築けていないのでは? という不安も、話してくれない=何か問題が起こった時に対応が遅れるのではという不安も、同じように自分が信じたいものをみようとするバイアスの一種なのではとも感じました。
話すか話さないかはその子のタイプにもよるだろうし、話してくれないのであればそれを踏まえた対応を考えておけば良いし、言葉だけではなく表情や態度からも読み取れることはあるはずだという見方もあるのに、そこには目を向けていなかったと気付いたからです。
私は「娘が話してくれない」ことを信じたかったわけではないのですが、話してくれないという不安が無意識のうちに私の中で広がり、「娘は話してくれない」という証拠を集めようとしていたように思い、不安に意識を向けさせようとするなんて、バイアスなんてなくなればいいのにと改めて思いました。

夫の言葉をきっかけに立ち止まり、自身のバイアスを意識してから、いったん「娘は話してくれない、私はこんなことを聞きたい」という主観は横において、目の前の娘に意識を集中することにしました。
すると、娘の話が私にすっと入ってくるようになりました。「こんなに暑いのに体育の授業は外だった」「今日の給食はいまひとつだった」など、話してくれないどころか、彼女なりに何かを感じママに伝えたいと思ったことを、毎日少しずつではあるけれど話してくれていることを再認識しました。

私は娘が話してくれているという事実に嬉しくなり、「給食いまひとつだったの、それは残念ね。どんなところがいまひとつだったの?」など色々と問いかけるようになりました。
「べつに〜」と流されることもあるのですが、そこから先生の話、お友達の話、娘自身がどう思っているかなどを話してくれることもあり、結果的に私が聞かせてほしかったことに繋がることもあることを発見しました。
この頃から、私自身のバイアスの方向が変わったような気がしています。娘の話を素直に受け入れている私にとってポジティブなこの状況も、もしかしたら「娘は話してくれる」というバイアスが作用して生まれているのかもと。

どれだけ意識しても、バイアスをかけてみてしまうという性質は人類の備えもっている性質のようなので、バイアスを恐れてなくそうとするのではなく、バイアスと向き合いながら、その種類や性質を学び、私自身や相手がバイアスにかかっていないかなと意識し気付くことが、大切なのかなと思うようになりました。そして、気付いたらその度に修正をしていけば、今回のようにバイアスがもたらす不安にただ流されることなく、目の前の事実に目を向け、対応していけるのかなと思うようになりました。
次はどのような自分のバイアスに気づくことができるのかも、今は少し楽しみだったりしています。

ではこの辺で、ジャカルタの鈴木さんにバトンをお渡しします。

タイ/瀧澤かおる




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