ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

義母を見送る


森屋さんから襷を受け取りました、兵庫県の名和です。
お嬢さんの思春期の成長をサポートすることでお母さんも成長する。共に成長する喜びを語り合える親子って、素敵ですね。

今回は、義母の臨終を看取るまでの心の軌跡をお話したいと思います。

認知症で一人暮らしが困難となり施設で暮らしていた義母は、去年の8月、居室で転倒。大腿骨を骨折し、15cmもあるボルトを埋め込むという手術を受けました。
「車いすがゴールとなるでしょう」という執刀医の見解を覆し、数メートルであれ自力歩行するに至った時には、持ち前の気力に拍手を送ったものでした。

ところが、秋も深まったある日、義母の血圧が急下降し、息も絶え絶え、一時的に意識を失う事態が発生しました。検査の結果、血液中のヘモグロビンの値が極端に低下し、自力再生が難しくなっていることがわかりました。「このままでは、酸欠状態で本人が苦しむから」という主治医の判断で、輸血を行うことになりました。
輸血をすると、まるで萎んだ風船が膨らむかのように回復しました。唇や頬に血色が戻り、お喋り好きな義母は「このあと、大丸でアイスクリーム食べよか」などと話し始め、「食べよう、食べよう!」と盛り上がりました。
しかし、2か月ほど経つと輸血で戴いた血液が底をつくかのように、また、血圧低下と酸欠が義母を襲いました。そして、再度の輸血。

3月末、3回目の輸血を終えた時には今までのような顕著な回復が見られず、そこには、弱り果てた義母の姿がありました。様々な体の機能が働かなくなっていたのでしょう。98歳の体の限界…とでもいうのでしょうか。

その時、夫は大きな決断をしました。それは、「何があっても救急車を呼ばない」というものでした。私は、それを聞いた時、重くて、にわかに首を縦に振ることができませんでした。
しかし、私は、夫がその決断をすることを予見していました。
なぜなら、6年前に義父が病院で息を引き取ったときの夫の深い悲しみが、時を経ても癒されぬ憤りにも似た感情となって残っていることを知っていたからです。
終末期の義父は、病院のベッドの上で、酸素吸入器、数種の点滴、心電図モニター、導尿カテーテル…たくさんの「機械」や「管」に繋がれて苦しんでいました。医師の懸命な治療、看護師の尽力のケアに、義母が「おじいちゃん、頑張ってー!」と声を掛けると、私も、息子も娘も、同様に応援しました。
夫はひとり、その場を離れ、「頑張らんでええ」と…。
後に、夫が言いました。「太平洋戦争に兵士として赴き、生還し、戦後の復興を支えてきた人間の最期に<頑張れ>は無いやろ。もう十分に頑張った人生なんや。お前までもが一緒になって応援するとは思わなかった。愕然とした。あのような最期の迎え方は、見るに忍びない」と。
夫は、母親にはそのような最期を迎えてほしくないという思いがあったのでしょう。
「夫の母親なのだから、夫の決めたことに従おう」
私は、そんなカタチで同意しました。
夫は、ケアマネージャーに、その旨を主治医に伝えてほしいと頼みました。すると、ケアマネージャーから「何かあっても救急車を呼ばなくていいのですね?」と再度、念押しの質問を受けました。
夫も私も、「はい。」と確かに、返答しました。
そう言いながらも、私の中には割り切れぬモヤモヤが残っていました。

その内、義母は食事を摂らなくなりました。口にするのはアイスクリームと義母から伝授されて作り続けている「青汁」だけでした。これだけは美味しそうに飲んでくれました。

やがて、義母は、一日のほとんどを眠って過ごすようになりました。そして、あの「青汁」すら口にせず、ほとんど言葉を発さなくなりました。
そんな義母の傍らに、ただただ座っていた時、ふと、昨夏、手術後のベッドの上で義母が夫と私に伝えてくれた言葉を思い出しました。
「あんたは、ええ子や」と夫に。
「この子はやりにくいけど、心根のほんにええ子やさかい、よろしゅうお頼み申します」と私に。そして、二人に、
「さいなら」と。
私のことはもちろん、夫のことすらわからなくなっていた義母が、はっきりと、私たち二人に話したのです。
あの時、義母は、もう覚悟を決めていたのでしょう。
その夜、夫はずっと書斎から出てきませんでした。きっと、精一杯それを受け取めていたのでしょう。

それに気づくと、私は、心のしこりが取れて、夫の思いに寄り添おうと思えました。
それまでの私は、義父の時の義母の「頑張ってー」の声を思い出し、口のきけない義母が心の中で「苦しい、苦しい、なんで助けてくれへんねや…」と言っていたらどうしよう…。この決断は夫の独りよがりではないだろうか?…と思って心ざわめいていたのです。また、それが、私の見舞いの時に訪れたら、傍らでただ見ていることができるのだろうか?…と思うと不安だったのです。

心配とは裏腹に、義母はとても穏やかでした。
ついに、水すら口にしなくなりましたが、義母は「枯れていく」ように眠りました。
時折、赤ちゃんの反射のように手や口を動かしながら。
私は、「残された僅かな義母との時間をどのように過ごそうか?」と考えました。
義母の好きだったものは何だろう。
義母が大切にしていたことは何だろう。
義母らしい姿はとは何だろう。
横たわる義母と向き合いました。
「そうだ、義母の愛した聖歌を歌おう」
義母はカトリック信者で、皆の先頭に立って教会のバザーではケーキを焼いたり、育てた花を売ったりと、エネルギッシュな人でした。
スマホのユーチューブで聖歌を再生し、義母の耳元に流し、それに合わせて歌いました。
すると、義母は、手を合わせて祈るような仕草を見せ、「あーー」と高いきれいな発声をしたのです。一度ならず、二度、三度。
私も嬉しくなって、また再生し、義母の手を取ってまるで二人でデュエットするかのように歌いました。
「こんなに楽しい時間をありがとう!」素直にそう思えた、とても幸せなひとときでした。
「また、来るね」と言って部屋を出て、「おばあちゃん、昨日より元気!」と家族にメールしたのを覚えています。

それから3時間ほどして、施設からの電話が鳴りました。
「息の様子が変わりました。すぐ、来て下さい」
その夕刻、大正生まれの義母は、息子と嫁と孫に囲まれて、穏やかに息を引き取りました。令和を迎えて三日後のことでした。

葬儀での夫の追悼の詞には、この聖歌のエピソードが語られ、後に「お前、ええことしたな」との一言をもらいました。とても温かい気持ちになりました。
私は、義母にとっても、夫にとっても、私にとっても「これで良かった。」と思いました。
ここまで書いて、私は、夫にまだ伝えていない大事な言葉があることに気がつきました。
「親孝行したね」という言葉。
葛藤の末に出した結論は、その時のベストな選択。それは、母親のことを大切に思っている何よりの証しだから。
祭壇に並ぶ義父と義母の写真が、心なしか微笑んでいるように感じます。

上村さんに襷をつなぎます。よろしくお願いします。

兵庫県/名和めぐみ 








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