ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

自分自身を知る旅


東京の楠野です。
五十君さんのブログを読んで、つい最近まで思春期だった子ども達との戸惑いの日々がよみがえってきました。思春期だからといって特別ではなく、ただその存在を全肯定する・・・とても共感しました。

さて、3月に入って就職活動本番となるはずだった長女。
コロナウィルスの影響で会社説明会の中止やオンライン面接に切り替わったことで、会社の雰囲気やそこで働く人から直接感じ取る機会が奪われ、自分との相性が測りにくい様子。どうしたらいいんだ!とナーバスになっています。
就職試験にパスするための今までのやり方が通用しない状況だからこそ、いったんセオリーから離れて本質に立ち返り、自分自身の価値感とキチンと向き合って、もう一度、適職とは?を考え直す機会にして欲しいと願っています。

一方で、学校休校の方針を受け、受け皿となった学童保育でのアルバイトの方は大忙し。就活をいったん横に置くことができ、良い距離感が生まれているようです。

大学1年になるとすぐに始めた学童保育でのアルバイトは、なんだかんだ3年続いています。0歳から保育園、小学生時代は学童保育にお世話になって育った娘にとって、良いことも悪いことも、そこに集まる人達のことも「分かっている」という自信もあったのでしょう。
子ども達と遊んでるだけでお給料もらえるなんで最高!という安直な理由で始めたのですが、毎日のように「今日学童でね…」から始まる話しには、驚きや悲しみ、喜びや発見、彼女にとって深い学びの数々が織り込まれています。

ママ今日バイト先の学童保育で褒められたよ。
あら、良かったね。
私じゃなくてママが褒められたんだよー。
なんで?
学童保育に通う子どもたちと話しをしていて驚くのは、自己肯定感の低さだそうです。
自分なんて居なくなっちゃえばいいのに、という言葉が飛び出すたびにドキッとすると。
何でそんなことを言うのか?どうしても理解できず、学童保育のベテランおばあちゃん先生と話をしたそうです。
私は小さい頃からを振り返ってもそんな事一度も思ったことがないし、自分のことが大好きだし、理解できないと言うと、おばあちゃん先生が、それはあなたの親がそう育ててくれたからだよ、と言われたそうです。

自己肯定感はありのままの自分自身を認め受け入れること。完ぺきではない、得手不得手や凸凹がある自分自身を曇りなく見つめ、ダメなところも含めて愛せるからこそ、他人にも優しくなれるということを、ハートフルコミュニケーションに出会い、私自身が変わることで気づくことができました。
でも、それを子どもたちに語ったことはありません。

どうしてそれが伝わったのか…
私の変化は怒らなくなったことに尽きるかと思います。私が怒らなくなったことで、子どもたちはこれでいいんだと思うようになった。

完璧でなければならないという錯覚にとらわれていたころの自分は、いつも苛立っていたように思います。
自分のできないことばかりに当てていたスポットを、私全体に当てるように変えてみたら、できることの方が見えてきて、できない部分があるからこそ私の個性なんだと、思えるようになりました。

そうなってくると今度は、自分以外の人(特に子どもたち)もその人丸ごと全体に光を当てて見るようになりました。
できないところを許せるというよりは、ひとりひとりが作り出すその調和が愛おしく思えるようになり、しだいに怒るとかイラッとすることがなくなっていきました。 

そんな私の変化が、怒らなくなったママという分かりやすさで伝わり、子どもたちはありのまま今のままでいいんだと思えるようになっていったのでしょう。

娘は日々学童で子ども達と接し、粘り強く向き合うことで、子どもをとりまくさまざまな社会的問題に気づき、より良く変えていきたい、と強く願っていることが、日々の話からにじみ出ています。 
つまりそれって天職なんじゃないかと客観的に見て思うわけです。

しかし、本人は決して認めようとはしません。
子どもは好きじゃない。むしろ、どっちかって言うと苦手。だから現実を見てもウンザリしないでいられるだけ。3年生はかまって時期、4年生は大人の顔色見出す時期・・・ほんとめんどくさい、と文句ばかり。そのくせ、子どもの成長の特徴を面白いくらい的確に捉えていたりして・・・

自分のことは自分が一番わからないものですね。
こうして、彼女の自分を知る旅は続いていきます。じっくり1年間、この旅が終わる来年の今頃、彼女が描く理想の社会人1年生として晴れやかに春を迎えられることを祈るばかりです。

漫然とした不安を和らげようとしているかのように、桜はいつもの年と変わらず美しく咲きほこっています。
大阪の桜井さんにタスキを渡します。

東京都/楠野裕子 





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