ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

だから今、耳を傾ける


渡海さんが息子さんを信じて・待って・任せ、自分で困り、試行錯誤した経験を大切されて
自分にとって何を大切にしたいのか、そのために自分が『今』何をすべきなのか、渡海さんは自分探しの旅をされているなぁと感じました。

バトンを頂きました落合です。
私は自分の思春期の時の感情や気持ちをよく覚えています。
最近知ったことなのですが、人によって思春期の感情をあまり覚えていない方もいらっしゃるようなので、今回は、私が当時、感じていたことと今を書いてみたいと思います。

「ヨーコ、何しているの?早くしなさい」「もう、どうしたらいいの?」と耳が痛くなるほどに母に言われたのを覚えています。
それに対して、私は無言、文句、暴言、無視で抵抗していました。

中学入学時は母と話をよくしていたことを覚えているので、私の思春期の始まりは、多分、中学2年生ごろからだったと思います。
「思春期」でくくられてしまうこの時期、私は外見ではいい子を演じ、内面(家や心の中)ではいい子とは似つかない、自分でも居心地が悪い心の状態でした。
学校では無遅刻無欠席、身なりは整っている、部活動に積極的で約束も必ず守る。家族の知り合いや近所の大人に挨拶をするなど、「お宅のお嬢さんはいい子ですね」と言われるような子でした。言い換えれば、いい子でいれば、人から自分という存在を認めてもらえ、感謝され、ほめてもらえる、そんな気持ちをもっていた子でした。

一方で中学校という集団生活の中で、同性・異性との友達関係、先生との関係、部活動…。私自身と他者との付き合い方に困惑した時間が長く続きました。
例えば、前日まで仲良くしていた子から、次の日に突然仲間外れにされたり、クラスの誰からも話してもらえない(シカト)期間が長く続いたりしました。
「なぜ私がその様にされてしまうのか?」
原因がわからず、どうしたらいいのかと内省の日々が続きました。そして、周りの子たちに「なんで?」とも聞けずにいました。保健室の先生はシカトする生徒の母親だったこともあり、冷たい態度。話を聞いてくれそうな先生もいましたが、私の方が具体的に話せませんでした。「明日には変わっているだろう、これは私の思い込みに違いない、気のせいだ」「今日私が我慢すれば明日こそはきっと…」と、どこかで信じていたからです。

自分に起きた出来事を自分で何とか解決しようとしますが、一向にうまくいきません。自宅ではとてもイライラしていました、日によって気分にムラがあったりもしました。そして、日々の気持ちや感情を言葉として冷静に表現出来ないフラストレーションの矛先が、母に向かっていきました。
突然怒りを爆発させるかと思えば、時には何もしない私の態度に、母はおそらく悩んだと思います。母の白髪が日々増えていったのを覚えています。

当時、我が家は7人家族、父方の祖父母、両親、弟二人、私で暮らしていました。祖父が脳梗塞を発症したこともあり、父方のきょうだい(母にとっての小姑)が常に自宅に出入りしていました。また父は自宅で自営をしていたのでバブルの時代に入り好景気なったことから仕事が忙しくなり、母は妻、嫁、親、会社員、すべての役割を一人でこなしていました。

母の役割の量は忙しくなるばかり。「お母さん、あのね…」。何か話をしたいと伝えても、「忙しいから、今度ね」「いつか、○○しようね」。初めは母の言葉を信じていましたが、一向に叶うことはなく、その言葉は私の気持ちを一時的に逸らせるための口実だと感じました。そのころから私は母と距離を置き始めます。
家事を終えてから夜中まで経理や給料計算をしている母に学校で感じていることを話せば、余計な時間をとらせてしまう。学校生活が送り難いことを言ったら…。迷惑をかけてしまう。でも、学校生活がしんどく気持ちが乱れている私のことをわかってもらいたい…。複雑な感情をもったまま中学校に通い続けました。

そして、「常に時間に追われ子どもの私に耳を傾ける余裕がない母のようにはなりたくない」と思うようになりました。私を理解をしてほしくて感情を爆発させても何も解決しないことを繰り返すうちに、「いま、学校で起こっていることを解決できないのは、忙しく向き合ってくれない母のせいだ」と、すべてが母のせいにすり替わっていきました。
「自分の時間がなくて何が面白いのだろうか?」「自分らしく、自由にしたい」
母を理解ができず、母からも理解されないまま、家に居つかなくなり、最低限の約束は守り、自分のプライベートや感情については話さなくなり、20歳過ぎには親元を離れていきました。

転機は今の主人となる彼と同棲・結婚し助産師として人生を再スタートしたことからでした。人生のパートナーと生活をはじめ、共有する時間を持ち、彼から人生の被害者になるのではなく自分で生きることの喜びを教えてもらい、世の中には多様な家庭環境や生活背景が存在することを知ったこと、助産師として子どもを産み育てることに関わることを生業にしたことで、親の有難さに改めて気づきました。

そこには母の愛が詰まっていました。
私が家を出るまで、母は朝昼晩と必ず手作りの料理、温かいご飯、お風呂、きれいに洗濯された服、お日様の匂いがいっぱいの布団、シーツ、毎日毎日準備をしてくれていました。フルタイムで仕事をし、義両親に気を使い、かつ母業をしながら、すべてをこなすこと。手抜きが好きな私にとって難儀なことです。それを何十年も当たり前のようにして母の愛の恩恵を受けてきたおかげで、心身健康で病気一つしない自分が今ここにあります。
子どもの頃の私は母の愛を当たり前のように受け続けていました。私の思春期は甘えの塊だったとも感じます。

それに気づいたのも随分大人になってから…。今は、母の愛に気付けて良かったと思っています。
もちろん母は、いつでも実家に帰れば喜んでくれます。帰りがけにはお土産を準備してくれます。近所のスーパーで買えるのに「洗剤あるの? ティッシュあるの? 持って帰りなさい」と玄関の私の靴のそばに用意する母。それもひとつの愛情表現なのだと感じ取ることができ、「ありがとう、助かるよ」と一言、やっと言えるようになりました。そう伝えた後の母は無言でしたが、持って帰らせようとする洗剤の量が2倍に増えていました。

まだまだ自分の考えや感情を素直に伝えるのは不得意な私です。しかし、「感情を言葉で伝える」という苦手な重い第一歩を踏み出したあとは、実家に帰ること、母に電話をかけることへのハードルが低くなったと感じています。
また、思春期に私が母に話を聞いてほしかったということは、その頃、母も私に話を聴いてほしい、話したいことがあったのではないかと思うようになり、母の話に耳を傾けよう、向き合おうと意識するようにor心掛けるようになりました。それが母の愛に対して今、私の出来ることだと思っています。

思春期の自分を思いだして、母の愛を再確認したエピソードをお話させていただきました。
この辺でカナダのチャウさんにバトンを渡します。

埼玉県/落合陽子 





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