ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

親になること


初めまして、千葉の鈴木です。
4月から小学校4年生になる男の子の母、 好きなことは、思いつくままに育てている酵母で我がままにパンを焼くことです。
これから2年間、泣き笑い日記を通じて、日常にちりばめられた宝物をひとつひとつ拾いあげていきたいな、と思っています。よろしくお願いします。

さて、フランスで出産され、現在タイで子育てをされている瀧澤さんの日記は、 インドネシアとスペインで子育てをしてきた私のハートフルに出会うまでの歩みとも重なり、「ガンバレ!海外子育てママ!!」と、当時の自分も含めて応援したくなる気持ちでいっぱいになりました。
自分で何とかしなければ、私がしっかりとした子育ての知識を得ればこの子を幸せにできるに違いない、とあらゆる育児書を読み、その通りにやってみても、子どもは本に書いてある通りには育たないと悩む日々。
そんな自分を思い出し、今回は初めて私が「親になること」を教えられた時のことを書いてみたいと思います。

現在9歳になる息子は、予定日より3カ月早い28週目にインドネシアで生まれました。
出生時の体重は1100g、身長37cm。
救急車で病院に運ばれ、担当医の顔を見たところで意識が途切れていた私が、 初めて我が子と対面したのは出産の翌日でした。
生まれたての赤ん坊は猿のようだと聞いていたけれど、保育器の中の息子は、浅黒く、骨と皮ばかりの鳥のヒナのよう。 喜びよりも、戸惑いの気持ちの方が大きかった自分にショックを受けました。

看護婦さんに「抱っこしてあげなさい。」と言われても、抱っこの仕方もわからない。 恐る恐る、初めて指で触れたとき、我が子の温かさにびっくりしました。
あばら骨のくっきり浮き出た胸は絶えず上下しながら呼吸をしていて、鶏ガラのように細い手足はそのエネルギーを外に向けて自己主張していました。
そこには、命という目に見えないはずのものが、剝き出しのまま存在していました。

そんな、彼の持つ生きる力を信じて見守る日々。
母親の私にできることは、出てこない母乳を1日8回以上ひたすら搾乳し続けることと、 それを親鳥のごとく1日2回、病院へ運び届けることだけでした。

そして1か月程たったある日。
看護婦さんから唐突に、「いつ家に連れて帰るの?」と聞かれました。 「ずっと病院で一人じゃ可哀そうよ。」と。
私は、「えっ!? まだ母乳はチューブで胃に入れていますよ。抱っこだってしたことありませんよ。夫は出張でいないし、私一人で連れて帰って、何かあったらどうすればいいのでしょう?」と半分パニック状態。
結局、生まれてから45日後、夫が出張から帰ってくるのを機に家に帰ってきた息子でした。

そんな彼は、おっぱいを吸う力もまだ弱く、なかなか自分のお腹を満たすことができません。
母である私も、ひたすらおっぱいを吸い続ける彼を抱っこし続けることしか知りません。
疲労と、わけのわからぬ不安で押しつぶされそうになりながら行った第1回目の検診でした。
そこで私は開口一番、「先生!この子、大丈夫ですか?」と医師に不安をぶつけます。
それに対して医師は、「お母さん、どう思いますか?」と問い返します。
赤ちゃんと24時間一緒にいるのは、私ではない、あなたですよ。 子供の健康状態は医師である私より傍にいるあなたが、一番よく知っているはず、と。
甘ちゃんだった私は、その医師のひと言に、未熟児とはいえど、既に医者の手を離れ、これからこの子を育てていくのは親であるあなたですよ、ということをはっきりと教えられました。

にもかかわらず、私は立て続けに聞きます。
「この子、目は見えるようになるのでしょうか? 耳は聞こえるようになるのでしょうか? 知能に遅れは生じないのでしょうか?」と。
それに対して医師は、「それを知ってあなたはどうするの?」。
目の前の子どもよりも、自分の不安やエゴを見ている私の心を指摘された気がしました。
そして、小さいけれど、目の前に確かに存在する我が子に目を向けず、未知の不安で心をいっぱいにしている自分に気がつきました。

それでもまだ、私の心には、「どうするの?」って、早くわかれば対処の仕様もあるじゃない、と医師に対する怒りの気持ちが湧いていました。
私は、医師の「大丈夫ですよ。」のひと言が欲しかったのです。
しかし、黙って自分の不安を自分のものとして受け止めるしかありませんでした。

息子の入院中、病院では毎日たくさんの赤ちゃんが生まれました。
与えられた命に従って、生きる子は生き、そうでない子もいました。
それは子どもが持って生まれた命で、誰も何もすることができない、 そんな現実を目の当たりにする日々でした。
私は、親になることは、その命を含めて、我が子が持って生まれたものを、そのまま受け止める覚悟を腹の中に収めることなのだ、ということを教えられました。

とは言え、教えられたことと納得できることは違います。
その後私は、わからないことから生じる不安を解消するために、できる限り正確な1次情報を持っているお医者様を探し、直接話を聞いてまわりました。そうすることによって、自分が何を受け止めればよいのか、どんな覚悟をすればよいのかを明確にしていきました。
そんなふうにして、ひとつずつ、ありのままの息子を受け入れる土壌を自分の中に作っていったのだと思います。

そしてこの間、私はインドネシアで本当に多くの人に支えられました。
不安を感じる間もなく、出産翌日には家族総出でお祝いに来てくれた友人たち。
深刻さを微塵も感じさせない明るい笑顔で、「小さいけれど、この子は強いね!」と言い続けてくれたお医者さんや看護婦さんたち。
母乳が出ないと言えば、次の日には自分の母乳を持ってきてくれるインドネシア人の緩さと温かさ。
生活と子育ての全てを支えてくれ、必要なときにはいつもそっと手を差し伸べてくれたお手伝いさん。
不安を行動に変えることを後押ししてくれた夫。
周りのみんなが息子のことをただただ可愛いと言い、抱っこし、あやしてくれ、誰一人未来の不安を口にする人はいませんでした。彼らの明るさと、今を喜ぶ姿に支えられ、私は自分の中に沸き上がる途方もない不安に押しつぶされずに済んでいたのだと思います。

このように、ちょっぴり早くお腹から出てきた息子とともに、少しずつ親になってきた私です。
しかし、愛しい我が子がマイペースに我が道を歩む姿に、それを見守ることを忘れ、親の価値観でいっぱいのエゴが出てくることもしばしばです。
そんな時、私は保育器の中の我が子をただただ眺めていた日々、 その小さな彼が自分に与えられた全てを、生きる力に変えて、我が家に帰ってくるまでに成長した日々を思い出し、
「この子は大丈夫!」と信じる力を取り戻すのです。

では、この辺りで石垣さんにバトンをつなぎたいと思います。

千葉県/鈴木真理恵  








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