ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

一隅を照らす


兵庫の渡海です。
ご近所さんが思わず声をかけてしまうほど、岩田さんのお庭は喜びや癒しの存在になっているんですね。私も、素敵なお庭にお邪魔したいと思いました。

今回は、96歳で亡くなった大好きだった祖母と家族との間にあった、満ち足りた最後の三ヶ月間を綴ってみようと思います。

大正生まれの祖母は、小学校の教師を数年した後、幸せな結婚をしましたが、戦争により未亡人となりました。その後、粉屋を営む祖父と再婚し、私の母が生まれます。
名家のお嬢さんだった祖母でしたが、再婚後は、朝から晩まで裏の工場で粉まみれになって、働き詰めの人でした。重い粉の袋を担ぐ毎日で、背中はくの字に曲がり、晩年は膝の痛みとともに過ごす日々。再婚相手の祖父は厳格な亭主関白で、その上嫁ぎ先には小姑もいて、祖母にとっての再婚は、決して楽なものではありませんでした。戦後間も無く生まれた二人の子を育てながらの工場での仕事、その頃は生きて行くことに精一杯だったと聞きました。

母や、その弟に当たる叔父が、結婚して家を出て、祖父も亡くなった後、祖母は何十年も一人で暮らしていました。90歳を過ぎても、一人で暮らしていた祖母でしたが、転んで骨折した事をきっかけに、一人暮らしを心配した母の誘いにより、私の実家で一緒に住み始めました。
とてもおしゃれで賢くて、お出掛けが決まれば何日も前から洋服とアクセサリーの組み合わせを考えたり、確定申告も電卓ではなく算盤で仕上げたり、お風呂も最後が良いからといつも家族の中で最後に入ってお風呂を洗って出てくるような、自立した尊敬できる祖母でした。

私には大切にしている一枚の写真があります。ドライブに奈良公園や若草山へ、祖父と祖母は私たち姉妹を、よく連れて行ってくれました。その時の写真で、私たちを本当に嬉しそう眺める祖父と祖母の表情に、無条件に愛されていたと実感できる一枚です。
私たち姉妹は、そんな祖母が大好きでした。

10年前の、お盆休み明け、「我慢して言ってなかってんけど、お腹の調子が良く無いんやわ」
とのひと言から、大病院で検査の末、余命三ヶ月と告げられました。
病院から余命を告げられたその日、ショックと悲しみと共に浮かんだこと。それは突然の祖母の余命を知った母への、心配でした。でも、現実の母は、祖母のために「今自分ができること」に、心は動き出していました。父と共に「祖母の希望を叶えよう」と在宅で緩和ケアをしながら看取ることを決め、着々と手配を始めていきました。

それ以降時間を見つけては、私たち姉妹はひ孫となる子どもを連れて、祖母の元に集いました。東京に住む叔父も、毎週のように会いに来ました。それは、祖母にとって、私たちと会うことが何より幸せな時間だ、と分かっていたから。もちろん、私たち自身が、残り少ないときを祖母と過ごしたいという思いもありました。

でも、それ以上に、自分は、祖母のためにできることはなんだろう? 祖母が何を喜んでくれるだろう? という思いで、皆が動いていました。
父は黙ってバリアフリーのための家の手直しをし、母は毎朝「今日は何食べたい?」と祖母と話すことが一日の始まりでした。叔父からは、遠く離れて暮らしてきたことへの懺悔と、在宅を決めた母と父への感謝、祖母への慈しみの気持ちを痛いくらいに感じました。妹たちは帰省するたびに、見舞客が来るだろうと掃除し食事を手伝い、ひ孫たちと共に、祖母の手をとり歩行の介助をしたり、抱きしめ、触れ合うことで、祖母に最上の笑顔をつくりました。
私は祖母の心に届くように、『恵ちゃんの音好きやわぁ』と見守り続けてくれたピアノを、祈りを込めて弾きました。

そして、祖母の体を、あったかいタオルで拭きながら思い出話をする時間も、家族の大切な時間となっていきました。
痩せてしわしわになっていく手足を見、触れることは、胸が締め付けられるくらい苦しく、96年間の祖母の苦労と共に「大好きな祖母がもうすぐこの世から居なくなるんだ」という現実を否応なく見せつけました。しかし同時に、祖母がかけてくれる「ありがとう、気持ち良いわぁ」と言う小さいけれど、しみじみとした声があまりにも慈愛に満ちていて、祖母の優しさとお互いへの感謝で胸がいっぱいになるのでした。

余命三ヶ月と告げられたのが、夏の終わり八月。十月に入り、徐々に祖母自身でできることが減っていき、ほとんどの時間をベッドで過ごすようになっていました。
そんな頃、着付けを習い出していた母は、祖母に「喪服ちゃんと着れるか自信ないから、見てくれる?」と、祖母の前で黒紋付を、自分で着付けして見せました。
着物が好きだった祖母は「ほんまに綺麗やわぁ。こんなに着物が似合うようになって。ありがとう、嬉しいわぁ。あんたは、私の自慢の娘や。当日も、これでよろしくお願いします」と、涙を流して喜んでいました。
父に対しても、「お嫁に出した娘の家に、私を置いてくれて、その上こんなに大切にあつかって貰ってなぁ。私は、この家に来てから一度も嫌な思いをしたことない。とうちゃん(父)には感謝しかないわ。ほんまに有り難いことや」と、伝えてくれました。

「私は幸せや。ベッドから見える、彼岸桜の木や、木蓮に、毎日鳥くんねん。可愛いでぇ。虫の
声や風や池の音も聞こえるし、こんな幸せな日が送れると思ってへんかったわ。ありがとうなぁ」と、日々、自分の幸せに感じていることと感謝を、私たち家族はもちろん、在宅ケアしてくださる医療関係の方々や介助の人たち、祖母が関わるすべての人へ日々伝え続けてくれました。
「死ぬのは怖くないでぇ。綺麗な光がそこまで迎えに来てくれてる、美しいでぇ。だから心配せんとき」と残される私たち家族に伝え、自分の死が悲しいとか、苦しいとか、そうではなく『美しく尊いもの』だと私たちは感じることができました。

そして、「参列してくれる人が来やすいように、涼しい良い季節に行くわな」の言葉通り、穏や
かな秋の日に、父と母に手をとってもらい、静かに息を引き取りました。
それぞれが、日常の中で自分ができることを探し行動し、祖母の喜びと感謝が私たちを包み心を満たしていました。静かで澄んだ「ありがとう」という思いが循環している、今思い返しても、幸福な空間でした。
私の好きな言葉に『一隅を照らす』があります。一人一人の内から溢れる純粋な愛情が、お互いを照らし、尽くし合う。各々の輝きが集り、あたたかで幸せな空間を作る。祖母との三ヶ月間はまさに、『一隅を照らす』ものでした。

では、この辺で落合さんにバトンを繋ぎたいと思います。

兵庫県/渡海恵子 





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