ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

手放した先に見えてきたもの


千葉の鈴木です。
瀧澤さんの日記の中で、「娘のために」が、「母親である私」を勇気づけ、その人生を後押ししてくれる言葉へとかわっていく様子に、私の背中も押してもらったような気持ちになっています。

さて、国境を越えて引っ越しの多い我が家ですが、
今回は、インドネシアでの子育てを通じて、「大切な我が子、この子を守るのは私しかいない!」という思い込みから少しずつ解放され、その先に見えてきたものについて書いてみたいと思います。

現在9歳になる息子は、ジャカルタで予定日より3カ月早く生まれた未熟児でした。
出産したばかりの私は、子どもに対する不憫さと、なんとしてでもその小さな命を守らなければいけないという闘争心にも似た母性本能、そして不安でいっぱいでした。我が子の姿を見て、「まるで天使だわ。」などと感じる余裕はなく、温かく包み込むような母性が湧いてこない自分に対する後ろめたさを感じていました。
そんな私の目の前に否応なしに現れたのがインドネシアの子育てでした。

未熟児だった息子は私の退院後も病院に残り、その日から私の使命は一日2回、最高の母乳を届けることとなりました。
とはいえ、「母乳なんて出るのかしら? そもそも搾乳なんてしたことがない」 。
そんな私の心配をよそに、看護婦さんは「大丈夫!大丈夫!」とニコニコしています。
何が大丈夫なのかもわからず、彼の命は私の母乳で繋がっているとばかりに、一日24時間フル稼働で数ミリの母乳を絞り出し、授乳タイムに病院へと駆け込んでいました。

ところが病院に着くと、息子は口に差し込まれたチューブから、まだないはずの母乳らしきものを飲んでいます。
「一体それは何?」と看護婦さんに聞くと、彼女は安心しなさい、という顔で、病室の冷凍庫に山積みになっている搾乳ストックを見せてくれたのでした。

当時の私は、「母乳って、血液だよね? 母乳を通じた赤ちゃんへの感染はほとんどないっていうけれど、何が入っているかわからないよね?」と我が子の命を脅かされたような感覚で、頭の中は真っ白でした。
息子の成長のために、完璧な食生活で完璧な母乳を用意したと思っていた私は、正直悔しくて、勝手に他人の(それも何の検査もしていない)母乳を与えた看護婦さんに敵意さえ感じていました。
しかし、数日後には、病院のみならず、私の母乳が出なくて困っているのを聞きつけた会社のスタッフまでもが、自分の搾乳を持ってきて来てくれるのです。

家族のごとく、息子と私の一大事にすぐさま母乳をもってきてくれるインドネシア人の姿は、これがインドネシアなのか、と嬉しくもあり、受け入れがたくもありました。でも、毎日病院に通ううちに、顔見知りとなったインドネシア人ママからは「母乳を分けてもらえない?」と頼まれるようになり、息子が退院する2か月後には、私もすっかり他の未熟児ベビーたちの乳母となっていました。そして私は、あぁ、息子に母乳をくれたお母さんも必死だったに違いない、そんな大切な我が子のために用意した母乳をわけてくれたのだなと信じることができるようになりました。と同時に、息子が見ず知らずの母親の母乳を口にしていた時の恐怖や怒りから解放されていくのを感じました。
そして息子と言えば、私の心配をよそに、インドネシア人ママたちからインドネシアで生き抜くために必要な免疫をたっぷりともらい、すくすくと育っていったのでした。

また、息子が生まれてからは、私は一日の大半を搾乳と病院への往復に費やすことになり、我が家にはお手伝いさんが来てくれるようになりました。
インドネシアでは、ある一定の収入以上の家庭では、お手伝いさん(家の掃除洗濯が主な仕事)とナニーさん(子守り)を雇っていることが多く、「人の手を借りる子育て」があたりまえのようです。
しかし、病院ですっかり看護婦さんたちのお世話になっていたことも忘れ、息子が家に帰ってきてからは、家事をお手伝いさんにやってもらう分、私は子育てに全力投球!の構えでいました。

が、我が家に来てくれたお手伝いさん、私が息子の泣くのを放置しようものなら、家のどこにいても飛んできてバティック(ろうけつ染めの一枚布)でヒョイと包み、泣かしっぱなしの私を責めるでもなく、息子をあやしながら当たり前のように自分の仕事を続けているのです。
「息子は私が育てる!」と息巻いてはいるものの、彼が泣いている理由もわからず途方に暮れる私から、彼女はそっと息子を受け取り、私が心を落ち着け、体を休めるひと時を与えてくれました。

このように、おおらかで、分け合うこと、助け合うことが当たりまえのインドネシア人に囲まれて子育てをしているうちに、「子どもは天からの預かりもの」という言葉を思い出しました。
子どもは神様から預かったものだから、親のエゴは手放しなさい。あるがままに育てて天(社会)にお返しするものだよ。
それにね、子どもは親の力だけで育てなくては、と考えなくていいのだよ、社会全体で育てればいいのだよ。そんなふうに私に語りかけてきました。

私には手放さならなければならないものが二つあります。
ひとつは、早産という事実。それは、変えられない事実で、私が手放さなければならない事実にもかかわらず、私はその事実にこだわり続け、それを無かったものにしなければならない、息子の成長の遅れをなんとか取り戻さなければならない、という思いに駆られていました。

そしてもう一つは、子どものすべてを自分がコントロールしたいという気持ち。
「小さな息子、この子は絶対に私が守る!」という気持ちは、「この子を守れるのは私しかいない!」という思い込みに、そして息子の「ママがいい!」は、「この子は私じゃないとダメなのだ。」という思い込みに変わり、それは息子にとって何が良いか悪いかを決めるのは私、というエゴで私を満たしていました。

息子が9歳になった今、これらのエゴを完全に手放せたわけではありません。
でも、息子を人の手に委ねることを学び、私が持っていた彼を失うかもしれないという怖れや鶏がらのような姿で外の世界に放り出された彼への罪の意識に気づき、変えることのできない早産という事実を手放していく中で、私の母乳だけをあげることに必死だった時には感じられなかった安らかな心で、息子のことをただただ可愛いと感じています。
それは、「おはよう!」と言いながらギューっと抱きしめたときのぬくもりに、思わず「大好き」と言ってしまう愛おしさ。
機嫌が悪いと思ったら、次の瞬間には笑っている、そんな彼の成長を見守るかけがえのない時間に対する感謝。
私を見つけてくれた息子にありがとうを伝えたい、そんな気持ちです。

では、この辺りで石垣さんにバトンをお繋ぎしたいと思います。

千葉県/鈴木真理恵  






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