ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

親の価値観からの私の自立


千葉の鈴木です。

相手のありのままの姿を受け入れることが難しいと感じるとき、「受け止める」というステップを挟むことで、相手の気持ちを想う時間が生まれるという瀧澤さんの日記に、一呼吸おいてまずは相手を知ろう、そんな気持ちになりました。

さて、夏休みを経て息子は10歳になりました。実家の両親にも一緒にお祝いしてもらい、私は息子の成長とともに、孫の成長を喜んでくれる両親の姿を嬉しく眺めていました。
今回は、そんな息子と父とのやりとりに教えられた、親の価値観からの自立について書きたいと思います。

私は子どもの頃から、両親にとって私が何よりも大切であること、愛されていることを肌で感じていました。それは、私を失ったら彼らの心が死んでしまうだろうという恐怖にも似た感情でした。
それと同時に、その両親の愛情は痛いほどわかるのに、なぜ私のやりたいことを思う存分やらせてもらえないのか、私の興味関心を良いものとして受け止めてもらえないのか、という強いフラストレーションも感じていました。

思春期に入り、自分のやりたいことと不安の真っただ中にいた私は、いつも両親に、私が興味を持ち、やりたいと思ったことを相談していました。私は彼らに絶対的な信頼を置いていて、彼らが良いね、と言ってくれれば、安心して前に進めると思っていたのです。

しかし、私の「やりたいこと」は父の納得いくものとは程遠く、彼が愛情をもって良かれとするアドバイスは私の不安を煽り、父はいつも私が自分の意思を貫くのを阻止しようとする、そんなふうにも感じていました。
その繰り返しのなかで、私は自分が何を面白いと感じるか、ではなく、父に認められるためには何をすればよいかを基準にやるべきことを選択し、その目標設定と達成を自らに課すようになっていました。

子どもの頃の私にとって家族は自分にとって必要不可欠な安全基地であり、親の価値観に従うことは、自分と家族という存在をつなぎ留めておくために必要なこと、親と異なる価値観を持つことは親への裏切りであるように感じていました。
私は、父の愛情を彼の自己本位の愛と感じ、そんな愛情で私を縛ろうとする彼にも、それに縛られる自分自身にも辟易し、大人になってからの私は父に一切の相談をしないことで自分を守るようになっていました。

そんな父との関係に新たな視点を持ち込んでくれたのが、他でもない我が息子でした。
実家に帰ると、父は私がうっとおしく思い避けてきた、私が解釈するところの彼の自己本位の愛情を今度は私の息子(孫)に向けて発します。にもかかわらず、息子はそれを実に客観的に捉えているのです。

例えば、親ばかですが、息子は絵が上手い。一度見たものを写真のごとく頭の中に残しておくことができるし、デザインセンス、色彩感覚に優れていて、それを自分自身の世界観をもって表現することができる。そのセンスは料理にも表れていて、今まで見たもの、味わったものを自分の中でプロセスし、表現することができる。

そんな息子に対して、父もこいつなかなかいいセンスしているな、と思っているにも関わらず、そんなことで褒めて、息子を図に乗らせ、絵や料理の道に進ませてしまっては大変、そんなに甘い世の中じゃない、という父の怖れに基づく価値観がムクムクと頭をもたげるのです。
そして彼の口から出てくるのは、「ジジは、お前に絵描きや、料理人になんかなって欲しくない。お前は政治家になれ。政治家になって多くの人の役に立つんだ。それにはまず、弁護士になれ。そうしたら、食うのに困らない」という、私も何度となく聞かされてきた彼の職業観。

ここで私は、またか、と父の言葉に反応し、息子が得意に思っていること、興味関心があることを良いものとして受け止めてもらえないことを、父の想いと価値観の押し付けのように感じるのです。そして、私の子どもの頃のように、父の言葉によって私の息子が自分の中にある素晴らしさに価値を見出せなくなりはしないかと不安になり、そんな言葉を発する父の口を封じたい気持ちになるのです。

そんな実家での父と息子のやりとりが気になり、後日息子にジジのメッセージをどう感じているのか聞いてみました。
すると、息子はきょとんとした顔をして、「ジジはジジの意見を言ったまででしょ?」と言い、嫌なものは何も感じていないというのです。
息子曰く、ジジは、「〇〇しなさい」ではなく、「ジジはこうした方がいいと思うよ」と言うから、息子は自分の考えとは区別して、ジジはそういうふうに考えるんだ、と思うことができるのだと。

それを聞いて私は、父の言葉に自分の不安や自信のなさを刺激され、彼が意見やアドバイスとして伝えてきたことを私に対する価値観の押し付けや縛りと感じ、にもかかわらず安心安全のためにそれに沿った選択をしてきた自分に気づき、ハッとしました。
絶対的に自分を守ってくれる父の中で、私は彼の望む価値を生きることで安心と達成感を得ていたのかもしれない、と。

そして今回この日記を書いているなかで、親子であっても価値観は違って当たり前、親と違う価値観を持ち、その親とは違う自分の価値観に従って生きることは親を裏切ることではないのだということにやっと気づき、初めて親から自立できる気がしました。

振り返ると私は子どもの頃、親と価値観を共有することで自分を信じ、また、相容れないものを感じながらも、私にとって一番大切な家族というチームがバラバラにならないよう、父の意見と自分の希望の妥協点を懸命に探し出してきました。
思春期を経て、大人になってからも、親と違う価値観を持つことにうしろめたさを感じながら、親とは違う自分を見つけてきました。
でも、親子であっても価値観は違って当たり前という事実を知った今、私は大手を振って自分の人生を歩むことができる気がしています。

自分が親になり、私にとっての家族とは同じ価値観を共有することで結びついている存在ではなく、違う価値観を持つ各人が互いに想いを寄せることで繋がっている存在であると感じます。そして、自分の家族をもった今だからこそ築ける父母との関係もあるのだなと嬉しく思います。

では、この辺りで石垣さんにバトンをお繋ぎしたいと思います。

千葉県/鈴木真理恵 





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