ハートフルコーチの泣き笑い日記

日々の発見やつぶやきなど。

答えるのは誰?


石川県の石垣です。
鈴木さんの日記を読んで、子どもの頃には必要だったやり方や信念。大人になった今は手放しても大丈夫なのに、まだギュッと掌に握りしめているものが私の中にあるような気がしました。「子ども」という立場があることを忘れがちな私は、親との関係を振り返ってみたくなりました。

さて、先日わが家に子ども英語教室の営業マンが来ました。その時のやり取りの中で感じたことを今日は綴ります。それは、昔の私も当たり前にやっていたことなのに、子育てについて学んだ今の私にはモヤっとすることでした。

営業のお兄さんは、私と小学5年生の息子を前にいくつかの質問をしました。
まずは、「(息子さんは)何歳ですか?」と私に向かって聞きました。私が息子の顔を覗き込むと、息子が「10歳です」と答えます。すると、「じゃあ…5年生かな?」と息子に聞き返しました。「あ、はい」と息子。
それから、また私の顔を見て「何か習い事はされていますか?」と聞きます。私が黙っていると、息子が「えっと…」と答え始めたのです。

このやり取りの中で、私は違和感を覚えました。特に、「じゃあ…5年生かな?」と一度息子に聞き返したのに、また私に向かって質問した時です。私は心の中で、《息子のことを私に質問するのね。隣に本人が居るのだから息子に聞けばいいのに…。》と思いました。

お兄さんは、ただ無意識に親である私に質問したのかもしれません。でも、息子は自分の年齢を知っているし、何を習っているかも知っています。当たり前ですよね、自分のことですから。そして、少しモジモジしながらも、自分で話せます。
私は息子が自分で答えることが「できる」と知っていたから、違和感が湧いたのだと気づきました。

しかし、昔の私は違いました。
子どもが赤ちゃんの時期、多くの人は「名前は何ですか?」などと、親に向かって質問しますよね。そんなふうに、当時の私は息子が言葉を話すようになってもなお、親に質問されることを当たり前のように感じていました。 息子は成長しているのに、親の私は相変わらずでいたんです。
さすがに小学校に入る頃には 息子自身が答える場面もありましたが、質問内容によっては当然のように代わりに答える親でした。

例えば、新しい靴を買いに行った時。店員さんに私が希望サイズを伝えたり、履き心地を質問されると、痛いところはないか? 歩きやすいか? などを私が息子に聞いてから答えていました。息子に頼まれた訳でもなく、お世話することが親の仕事だと思っていたんです。
履き心地のように息子の体で感じることは本人じゃないと分からないし、これは親の仕事ではなく息子が答えればいいこと(息子が対応すること)だと気づいてからも、私は任せることができませんでした。

考えてみれば、「自分のことを自分で話す」のは当たり前のことだと思います。大人になったわが子が自分のことを聞かれて、誰かが代わりに話してくれるのを待っている姿は想像したくありません。
そこで、 「できない」と決めつけるのを止め、息子自身のことで「できそうなことはやってもらおう」と決めました。
はじめは「ひょっとしたらできるかも…」と試してみる感じでした。でも、飲食店で店員さんに注文や希望を伝えたり、習いごとの先生に丁寧な敬語で質問したり。そんな息子の「できる」姿にたくさん出会っていくうちに、次第に「この子ならできる」と思えるようになって、やっと任せられるようになりました。

息子を「できる存在」として捉えるようになったことで、息子のことを質問された時、私の中で「答える人」の主体が私から息子自身に変わりました。だから、英語教室のお兄さんとのやり取りで、昔の私が感じなかった違和感を覚えたのだと思います。

息子を「できない存在」と捉えていた頃の私は、私が質問に答えていました。しかし、息子を「できる存在」と捉えるようになった今は、息子が答えるのを待ち、答えに詰まった時はサポートしています。
今の私にとって親の仕事は、自立を見据えて、その子の発達や成長度合いに応じた必要なサポートをしていくことだと感じています。

意識していても、していなくても、親が心の奥で「この子はできない」と思っているのか、それとも「この子はできる」と思っているのか。親の在り方によって、子どもへの関わり方が大きく変わるということを実感した出来事でした。

まだまだ任せきれていないこともありますが、息子が自立した大人になるために、私は「この子はできる」という在り方で関わっていこう、と改めて心に誓いました。

では、この辺りで村井さんにバトンを繋ぎます。

石川県/石垣恵美





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